複数文化研究会編『<複数文化>のために−ポストコロニアリズムとクレオール性の現在−』人文書院、1998.11
本書は、複数文化研究会が開催した二つの国際シンポジウム@<複数文化のために>第一部「島・身体・歴史」第二部「ポストコロニアリズムの功罪」、A<クレオールの構え−クレオール性批判と複数文化翻訳>の記録ということになっている。基本的には、本書冒頭の三氏(G.アンチオープ、網野善彦、海老坂武)による発題と若干の討論は@の第一部に、T「ポストコロニアリズムの功罪」は@第二部に、U「クレオールの構え」はAの第一日目の発題に、V「文化翻訳のポリティクス」はAの第二日目の発題にそれぞれ相当するようだが、どのようなタイムスケジュールで行われたのかの記述がないので、断言は出来ない。さて、本書を通読してまず感じるのは、冒頭の三氏の発題・討論とTまでの約146頁分と、後半のU・Vの約165頁分の内容が余りにもかけ離れていて、とても一冊にまとめ得るようなものではないのでは、ということである。前半はアジアのポストコロニアル的状況に関する議論であり、後半はカリブ海のクレオール性を巡る議論である。300頁辺りで細見和之が述べている通り、クレオール性なりクレオール化に関する議論を日本を含むアジアの状況を考えるのに活かすことは可能だし、生産性もそれなりにあるように思うのだけれど、残念なことに本書に掲載されたテクストには、そういった作業をこなしているものは見当たらない。今後の課題、あるいは読者への宿題ということなのかも知れないが、少なくとも、前半と後半をつなぐような、もう少しきちんとした形をとった論考が、第W部として何本か掲載されても良かったのではないかと思う。あるいは、前半はカットして、これだけでも充分に面白い後半のみで一冊にしてしまった方が良かったかな、とも思う。前半の、アジアの各種社会・文化事象を無理矢理ポストコロニアリズムという言葉でくくろうという余り意味のない論考群に比べ、後半のクレオール性を巡る議論は、密度も濃いし、内容も多伎にわたっているし、各論者の見解がバラバラだったりするところもなかなか面白いし、それなりに充実したものだと思う。ただ、前半・後半とも、シンポジウムの記録と銘打っているからには、恐らくは存在したであろう、こうした発題を受けての討論が全く掲載されていないのは極めて残念であった。後半に関してのみ言うならば、エメ・セゼールの提示した「ネグリチュード」と、それを批判すべくパトリック・シャモアゾー、ラファエル・コンフィアン、ジャン・ベルナベによって提示された概念である「クレオール性」に対する評価が各論者によりまちまちで、この辺りについては各論者同士の熱きバトルが展開されたのではないかと思ってしまうのだが、何しろ記録がないので何とも言えない。議論を開かれたものにしたい、みたいなことが同研究会の理念として掲げられている以上は、各論者のモノローグではなく、各論者同士のディアローグ、あるいはポリローグが行われ、きちんと記録される、ということが重要なのではないかと考える。これで終わり、というのは余りにも残念な気がするのである。(1999/02/10)