篠田節子著『ゴサインタン−神の座−』双葉社、1996
本サイトはだんだんと「篠田節子の非公認ウェブサイト」に化しつつあるのだが、ご勘弁頂きたい。これは単に私の最近の読書傾向を反映したものであって、しばらく続くことになると思う。
まずは概略を示そう。東京近郊の広大な土地を持つ農家の跡取り息子である結木輝和は、結婚ブローカーの仲介を経てネパールの少数民族の女性カルバナ・タミと結婚する。輝和は日本人によく似た彼女をかつての意中の女性の名をとって「淑子(としこ)」と名付ける。輝和の母富美子は彼女に成瀬巳喜男監督等の映画を見せたりしながら日本語を教え、日本の生活習慣を教え、日本の文化・社会になじませようとするのだが、「淑子」はなかなか身籠もらず、日本語も覚えず、挙げ句の果ては出奔・万引き等の事件を起こしてしまい、その後どうやら「淑子」の不可思議な力によるらしい3つの事件、すなわち輝和の寝たきりの父が看病疲れの富美子の手で毒殺され、その富美子もまた突然発病した「くも膜下」で死に、その間には再会し今度はうまくいきつつあった尾崎淑子も交通事故で死ぬといった、輝和にとっては最悪の事件が続発する。
富美子の葬儀の際に「淑子」は最初の神がかりになり、その後病気直しや失せもの探し等を行うようになる。そうするうちに信者を集め始め、結木家は「淑子」を教祖と仰ぐ信仰集団の集会所と化していく。「淑子」は父母の葬儀で受けとった香典や相続税支払い用の現金その他の結木家の財産を信者にばらまき、輝和に全てを捨てるようにと諭し、結局結木家は崩壊する。最終的には「淑子」のばらまく金銭その他が目当てでないほんの一握りの熱心な信者を残すのみとなった信仰集団は、かつて結木家が所有していた家屋にしばらく逗留した後、「淑子」による近在の新興住宅地の山崩れの予言を期に、その山の所有者から土地を譲り受け、小屋を建て、農産物の生産や養鶏、林業などの事業を始める。それなりに軌道に乗ったかに見えた彼らであったが、「淑子」は再び出奔、日本に滞在した期間全ての記憶を失いネパールに帰国する。輝和はこれを追い、、カルバナ・タミの出生地である「神の住むところ」=「神の座」を意味する「ゴサインタン」、別名「家畜は死に絶え、麦も枯れる地」を意味する「シシャパンマ」と呼ばれる山の麓の村に向かい、その過程でネパールの現状を知ることになる。結末は読んでのお楽しみである。
本書は旧作『聖域』の続編、というよりは大々的な書き直しであるのではないかと思う。誠に良く出来た小説で、『聖域』の持つ欠点は見事に払拭されている。それは一つには、語り手をあくまでも農家の跡取りである輝和に固定し、そのことによってさまざまな事件を経てなることになる彼の内面的な変化がうまく描き出されているからであろう。輝和及びカルバナ・タミという人物の造形も『聖域』の二人の主人公に比べ不自然な感じはしない。輝和は基本的には「大人になれない日本の男たち」の代表なのであろうが、文字通り全てを失うことによって、彼は極めて大きなものを得る、あるいは学ぶことになるわけである。それは結局、しばらくの間彼の戸籍上の妻、還元すれば結木家の子孫を残すため、または輝和の性欲を満たすという目的のために彼の妻となっていた女性が、「淑子」ではなく「カルバナ・タミ」というれっきとした名前を持つネパールの土地と社会が育んだ女性であることに気付く、ということである。まあ、家名とか様々な打算によらない「真実の愛に目覚める」ってことだ、と言ってしまえば簡単なのだが、篠田の見解ではそれがおそらく男性たちにおいてなかなかなされにくいのが現状だ、ということらしく、こういう前提を踏まえながら、極めて大がかりな物語を構築することによって、その難しさと同時にまたそれがなされることによって得られるのだろう、甘美な陶酔のようなもの(私にはよく分からないのだけれど)を提示したかったのではないかと思う。
さらにまた、本書は、私がここしばらく文献を渉猟してきた「山の神」と女性を巡る問題について再度考えさせてくれる。すなわち、ゴサインタンにいます神とはすなわち「山の神」なのであり、輝和は最終的にはカルバナ・タミを「山の神」であると認識するようになるのである。といってもそれは、必ずしも崇め奉るべき神という意味ではなくて、日本の各地で現在も行われている、「自分の妻を山の神と呼ぶ」という慣習に従ってのことに限りなく近い。ここで面白いのは、篠田がカルバナ・タミの持つ神性について、女性神に当てはめられがちである「豊穣性」や「母性」をさほど強調していない点である。「山の神」の持つ性格には、少なくともそうした主として農耕社会に見られるような機能化した豊穣神である場合や、主として狩猟社会に見られるような余り機能化されておらずより純粋な畏怖の対象とされる場合の二通りがあるのだが、篠田がゴサインタンの神にいかなる性格を与えているかは次の言葉から読みとれるだろう。「神はそびえる。神は五穀を実らせ、神は家畜を殺し、麦を枯らし、神は罪の無いものを殺し、罪のある者も無い者も救う。神は突然現われ、何も告げずに去る。神に倫理はなく、もちろん論理もない。」(p.401)
本書において篠田が問題提起・告発しているのは、日本の農業政策・土地政策の在り方、それと関連しての土地所有者と非土地所有者の間の階級差とでも言うべきものの存在、外国人妻の受容と彼女らに対する差別・偏見、世界的に見られる開発と近代化による文化・社会の破壊、既成教団の目に余る拝金主義など広範なものである。篠田はそれらに対して、エンターテイメント小説という形を取りながら、一つ一つ丁寧にその処方箋ともなるべき方法を提示している。それは「ヤマギシ会」、あるいは大江健三郎の『燃え上がる緑の木』シリーズや奥泉光の『葦と百合』において示されたようなある種原始共産社会的なコミューンの可能性の提示であったり、国際結婚の成功のためには互いの文化の理解・受容が欠かせないという、まあ当たり前のことだとは思うのだが日本人の東南・南アジアに対する優越感(植民地主義といってもいいかも知れない。)があるためになかなか実現されていないことの提示であったり、急速な近代化への異議申し立てであったりする。全般的には近代、あるいは日本の文化・社会へのアンチテーゼの提示を意図していると思われる部分が多々あるのだが、篠田が近代、さらには日本の文化・社会を決して全面的には否定していないことは、「中途半端な近代化」のために荒れ果ててしまったネパールの耕地を、日本の伝統的及び近代的な農業技術とネパールの伝統的農業技術の融合によって復活させよう、という、「家業を守る」というやや消極的な動機で生きてきた輝和がようやく得ることになった「人生の目的」及びその手段とでも言うべきものによって示されていることである。
なお、表紙にもある「転落」(ここでは結木家あるいは輝和が全てを失い尽くすことを指すと同時に、東京近郊の「H市黒沼田地区」の結木家を中心とする地域社会が解体することをも意味している。)と「再生」(同じく、これは全てを失った輝和の得た新境地や、おそらくなされたのだろうH市の一地域の土地の持つ力の回復を意味する。)のモチーフは当然世界的に見られる洪水神話やユダヤ・キリスト教における終末論とも通じるものである。これはより現実対応的なフェミニスト革命論を展開したのだと考えている『女たちのジハード』に比べれば現実離れした本質主義的な社会革命論になっているわけで、それの孕む危険性は指摘しなければならないことは述べてく必要があろうと思う。まあ、この小説では「転落」や「破壊」、さらには「再生」が国家とか世界の規模で起きるわけではないのだから、余り心配することはないのかも知れない。それは、このような個人主義的な救済観は(本書はちょっとばかりこれからはみだすが、)、ある意味では現実対応型とも言えるわけで、そういうものが全然無くなってしまったらこの世はとんでもなく生きにくいだろうことからその意義を基本的には認めていきたいと考えているからである。
ところで、篠田の「養蚕」と「ネパール」への拘りは一体何なんだろうか?(1997/12/08)