奥泉光著『グランド・ミステリー』角川書店、1998.3
奥泉光の書き下ろし超大作である。真珠湾攻撃時における、空母「蒼龍」上での「榊原大尉」の謎の服毒死から始まる物語は、海軍士官及び兵士、未来を完全に予測するという超能力者、彼を導師とする教団、その主宰者である国粋主義者、暗躍する武器商人、『オデュッセイア』のギリシャ語原典読書グループ等々の誠に多彩な登場人物によって織りなされていく。この人の、戦時の時代状況を知識人グループや軍人達の諸行動、諸言説によって描き出していく力は確かに大変なもので、思わず引き込まれてしまった。全体の主張低音をなすのはW.シェイクスピアの作品。冒頭には『マクベス』からの引用が掲げられている他、一連の出来事が生じることになる発端において極めて重要な役割を果たしているらしいのが、そのままズバリの「ヴェニスの商人」だったりする。さらにはここでもまた奥泉の夏目漱石への思い入れが明瞭に現れているのだけれど、今回は漱石の「小説」ではなく、その講演「私の個人主義」に見られるような「個人主義」と、「民衆」だの「国体」だのとの対立関係を描き出すためのレトリックとして用いられている。私見では、本作品の最重要タームはこの「個人主義」であり、では、「個人と戦争とはいかなる関係にあるのか」、というのが本作品のテーマなのではないかと思われた。このことは、一例を挙げるならば、本書の最後の方で、クリスチャンの弁護士「本田」(この辺りは、「割腹」自殺を図る先述の国粋主義者と併せて見ても、作者は「三島由紀夫」を召還しようとしているような気もする。その傍証とも言えると思うのだが、三島の最後の作品である『豊饒の海』と同じく、本書もまた「輪廻転生」がやや形を変えて扱われていると言えなくはないのである。)が、「なぜ人間は戦争するのか?はたまた、いかにしてそれを回避するのか?」という問題を巡って、「人間がひとつにではなく、たくさんのものとして造られた」ことこそが重要なのであって、そこから戦争を含めた争い事は必然的に生じてしまうのだが、それでもなお「別々なままに結びあうこと、別々なままに豊かな関係を作り上げること」を「神様」は望んでいて、「そのための手段」として与えられているのが、「言葉であり理性であり人間の知恵」(pp.515-6)に他ならない、と述べていること辺りからも伺い知れると思う。なお、本書で幾度となく繰り返されるユダヤ・キリスト教的モラルや世界観を巡っての議論がなかなかに含蓄に富んだものになっているのは、奥泉が国際基督教大学の大学院で古代ユダヤ政治史を研究していたということに由来するものと思われる。訳書に『古代ユダヤ社会史』なんていうのがあったりするのである。見たことはないけれど。
下らないことを付け加えると、最初の事件が起きるのが「蒼龍」艦上であったり、「榊原大尉」の妻が後に経営するバーの名前が「アンカー」であったり、主人公・加多瀬の乗る潜水艦から搬出される特殊潜行艇の「ジャイロコンパス」が故障したりと、どうも意図的にやっているとしか思えないところが目に付いてしまった。何が言いたいのか分からないかも知れないけれど、その場合には私の「書評」集を読み返して頂ければ、と思う。私個人としては余り引きずりたくないのだけれど…。(1998/06/28)