青木保著『逆光のオリエンタリズム』岩波書店、1998.3
人類学者・青木保の注目すべき論考である。本書の著述スタイルは、イスタンブール、コロンボ、香港、シンガポール、バンコク、ヌワラ・エリア(スリランカ高地のリゾート地)という、「アジア」の諸都市、諸地域における著者自身の長年にわたる滞在経験を踏まえて、いわゆる「西欧」の「アジア」観・認識様式である「オリエンタリズム」に、「アジア」の一成員である青木が逆光を当てて見るとどうなるか、というもの。「逆光を当ててみる」というのは結局のところ「オリエンタリズム」というものをいわばカッコ入れして、そこから一定の距離をとりながら「アジア」の現実なり歴史なり文化様式なり生活様式を眺めなおしてみる、ということになると思うのだが、青木がそこで見いだしたのは「アジア」の「西欧」観・認識様式ともいうべき「オクシデンタリズム」であり、それには「正のオクシデンタリズム」、すなわち「近代合理主義」や「個人主義」といった「西欧」的なものを肯定するという立場から、「負のオクシデンタリズム」、すなわち「西欧」的なものを批判し「アジア」的なものの正当性や妥当性を強調する、という2通りの立場がある、ということになるらしい。そうして、各国内ではこうした立場の対立が様々な形をとって現れている、ということになる。さらにまた、個々の事例に関する一連の見解も示唆に富むものである。ただ、私見では、青木には「西欧」が「アジア」を見る場合には「オリエンタリズム」が、「アジア」が「西欧」を見る場合には「オクシデンタリズム」が立ち現れざるを得ない、という一種の諦念のようなものがあるように感じられた。それではそれを乗り越えるにはどうすれば良いのか、という点に関しては、私自身は、結局のところ「西欧」と「アジア」という2分法自体についても問い直しがなされなければならないのでは、などと考えるのだけれど、青木はあくまでもそういう2分法に拘っているように思われた。とはいえ、いきなり超越的な立場に立つことも実のところ極めて困難であることも事実である。2分法の中で現実を見極めつつそれを乗り越えようとする、といういうような戦略が、現時点でわれわれがなし得る「たった一つの冴えたやり方」なのかも知れない。
さて、以下、本書の構成その他について小言を述べておきたい。私は頭から読んでいったのだが、以上5都市、1地域の論考に続いて「オリエンタリズムとオクシデンタリズム」といういわば理論編とでもいうべき章が設けられていて、これを先に見ておけば上記の図式を念頭によりすらすらと読み進められたように思うのだが、冒頭から頻繁に用いられることになる「オリエンタリズム」や「オクシデンタリズム」、あるいはそれに「逆光の」だの「正の」、「負の」といった形容詞がつけられたものがいかなる意味合いで用いられているのかを把握するのがなかなか困難で、「なんでこんな構成にしたんだ?」という恨み事を言いたくなってしまったのである。まあ、それは理論編を頭に持ってくると、帰納的に導かれる理論を重視する人類学のような学問を自ら否定してしまう事にもなりかねず、その辺りを考慮したのではないかと邪推するのであるが、最低限、それについての先行する著述・論考も数多く存在する「オリエンタリズム」や「オクシデンタリズム」という語に関しての人類学なりなんなりにおける今のところの定番的な見解のようなもの位は冒頭で説明されていても良かったのではないかと思う。「そんなものは常識だから」、ということで省いてしまったのかも知れないけれど、それなら「オリエンタリズムとオクシデンタリズム」の章は何のために付いているのかがよく分からないということにもなる。所々日本語になっていないし、意味不明な文章も幾つか指摘出来るのだけれど、良い編集者に恵まれれば真の良著に成り得たのではないかと思い、やや残念に思う次第である。(1998/05/25)