藤田庄市著『行とは何か』新潮選書、1997
- フォトジャーナリスト・藤田庄市氏の最新刊である。以下、11月29日に東洋大学にて行われた「近現代宗教研究批評の会・書評会」での私のコメントに、若干の加筆・削除を行いつつ論評を加えたいと思う。
- さて、本書がいかなる目的をもって執筆された書物であるのかは「プロローグ」の最後に記された次の言葉から読みとることが出来る。すなわち、「宗教とは何か。修行とは何か。宗教がはらむ『狂気』とは何か。だが、薄っぺらに『狂気』などと言わせない宗教者の実践と思慮とは何か。自問をくり返しながら、修行に同伴し、話を聞き、まとめたのが本書である。」(p.19。『』は原文では「」。以下同様。)
- もちろんこの文章は藤田氏が取材・執筆・発言を行ってきた「オウム真理教」の一連の事件を念頭に置いている訳で、ここで問題として提起されているのは、「本物の宗教」と「偽物の宗教」の違いは何処にあるのか、そしてまた「本物」と「偽物」を見分けるにはどうすればよいのか、ということになるのではないかと思う。そして、その答えは、大変な時間と体力を費やしたはずの取材と、それに基づいてなされた天台宗僧侶たちの何とも凄まじい「行」の、抽象化を可能な限り避けた具体的かつ詳細な記述によって、読者には自ずと見えてくるはずだ、という前提をもって執筆がなされたのではないかと思う。もちろん、天台宗に所属する一部の僧侶の行う「行」のみを取り上げるのでなしに、他にも例えば修験者たちの「行」であるとか、あるいはオウム真理教の「行」などを併置するということによって説得力と妥当性はより増したのではないか、という批判も当然起きてくると思われるのだが、本書はとにかく「薄っぺらに『狂気』などと言わせない宗教者の実践と思慮」の具体例を示すことに主眼があるのであって、それは確かに一例を挙げればすむことなのだから、これはこれで、正当なのではないかと思う。読者としては、藤田氏の少し前の仕事である『異界を駈ける』(学研、1995)や『オウム真理教事件』(朝日新聞社、1995)等を参照することによって、本書の言わんとするところをさらに深く認識できるのではないかと思う。
- 私見では、本書の中心をなすのは第X章及び第Y章における、天台宗僧侶・筒井叡観氏が福島県大沼郡会津高田町の会津薬師寺において行った「十万枚大護摩供」の藤田氏による参与観察の記述及びその医学的心理学的分析である。ここでは、同大護摩供に関しての宗教学的分析は最小限のものにとどまっており、特にその社会的側面に関する分析はほとんど皆無であることに注意を喚起したい。社会的側面に関して本書が述べるべきことは、第X章での筒井氏と会津高田町の人々との交流の記述でつきている、という面も否めないのであるが、例えば後に述べるような「何故受け入れられたのか?」という点を明らかにするには、社会学的な分析も必要なのではないかと考えてしまうのである。少なくとも、医学的心理学的分析に関する記述がなされたのだから、社会学的分析を取り込むことによって「分析」のためにおかれたと見て良いだろう第Y章の内容によりバランス感が出たのではないかと思う。
- さらにこの点について言うと、私としては、「あとがき」における「本書の内容と関係のない」と明記された四つの問題、すなわち「精神的、肉体的、財産的に人を傷つける組織的宗教の出現」「選挙と宗教団体の一体ぶり」「宗教と国家・行政とのかかわり、とりわけ戦没者の慰霊・追悼のこと」「自らを宗教でないと規定する『宗教』の登場」の提示をしてしまった以上は、これらの「諸問題を考えるヒントが、じつは本書が描いた伝統仏教の世界にあると思った」にもかかわらず、「ここでその論を展開するつもりもないし、そうした場でもない。」であるとか、「社会のなかで宗教が危険視されたり、軽蔑される傾向が強まっている今、その克服のためにも本書がいささかでも役に立つことがあればうれしく思う。」(以上、「あとがき」pp.311-3より。)などとやや逃げ腰(というのは他書との比較から私がそう感じたということである。当日の藤田氏のコメントでは、あとがきにこのようなことを載せたのはむしろ挑発的な意味合いがある、とのことであった。)に述べるのみではなく、それらの問題を立ち上げた以上は、あくまでも本書の内容(つまりは天台仏教における「行」の成立に関する歴史的背景及び現状の詳細な記述)に即しながら、何らかの解答・指針・結論の提示を目指して、宗教者と社会との関係や、「行」というものの持つ社会的な意味に関する分析がさらに深められなければなかったのではないか、と考えるのである。
- その点について、私個人の見解を述べさせてもらうと、それは例えば、「この仕事の間、そして今も、彼らのことが脳裏からはなれたことはなかった。」(p.19)というオウム真理教という教団が何故上九一色村の人々あるいは日本社会に受け入れられず、反対に天台僧侶・筒井叡観氏が会津高田町の人々に受け入れられたのか、という問題に帰着させることも可能である。それはある特定宗教あるいは宗教者の「正統性」の根拠付けを巡っての議論に還元出来るものと考えてみる。それは藤田氏がそれとなく仄めかしている「伝統」の力なのであろうか。あるいは最近のシャーマニズム論が指摘しているような宗教者の行う「パフォーマンス」の持つ力なのであろうか。「伝統」というものすらも「近代」の「発明」である、というような議論がなされてきたが、それは措くとしても、私個人が修験道や民間巫者の研究、あるいは各種「行」への参入を通じて感じ取ってきた「伝統」性の稀薄さからして、どうも後者の比重が大きく、逆に言えば「伝統」なるものも実のところ宗教者や宗教集団の「パフォーマンス」によって「正統」化され得るものなのではないかと考えているのであるが、いかがであろうか。(1997/12/02)