篠田節子著『ハルモニア』マガジンハウス、1998.1
『カノン』に続く音楽小説である。基本的な設定はG.キューカーの『マイ・フェア・レイディ』、もっと古くは夢野久作の『ドグラマグラ』と同様である。 舞台は障害者の社会復帰を目的に設立・運営されている山梨県の「泉の里」と呼ばれる施設。チェロ奏者・指導者である主人公の東野は臨床心理士・深谷の依頼を受け、脳に障害を持ち周囲との「正常」なコミュニケーションが出来なくなってしまったのと同時に、その障害のために「超感覚的知覚(直観像的記憶)保持者」となり、音楽に関しての能力が著しく向上してしまった28-9歳(物語は約2年のタイムスパンを持つ。なお、29歳という年齢設定は極めて重要である。)の女性・由希にチェロを教えることになる。
要約するのもなんなので詳しくは本編にあたって頂きたいが、希望に満ちた『カノン』に比べ、何とも凄惨かつ暗澹たる作品である。最近福島県の障害者施設でとんでもない事件が起きてしまったが、これに通じるものもある。また、由希の障害は実は彼女が12歳の時に、先天的な脳の機能不全を治療する手術の際に当時盛んであった「大脳の機能部位」研究のために脳に電極をあて、過負荷がかかってしまったために生じたもので、まあ、言ってみれば医療過誤でありまた患者の人権無視であり、この辺りは近年の一連の「HIV訴訟」の話とも絡んでくる。また、由希の音楽的能力はあくまでも聞いたものを聞いた通りに「コピー」することであり、それがもとで過剰な感傷性を持つ混血の女性チェリストであるルー・メイ・ネルソンの音楽的個性まで「コピー」してしまい、その結果ルー・メイの死後、「ルー・メイの霊が乗り移った、障害を持つ美人チェリスト」、として音楽業界やマスコミに利用されることになるのだが、その「イタコ云々」問題は措くとして、「コピー」とか「オリジナリティ」あるいは「アイデンティティ(この辺は最近流行の「自分探し」のようなものにも通じる。本書では328頁でさりげなくいわゆる「アダルト・チルドレン」達を揶揄している。)」を巡る挿話は「クローン」技術の人間への適用の可否、という議論にも通じるものである(197頁では「レプリカント」という語も用いられる。)。勿論これは篠田の作品群とどういうわけか響きあうところの多い庵野秀明のアニメーション作品にも通じることである。これについては最後にもう一度触れよう。
さて、深谷と東野はそれぞれ目的は異なるにせよ結局由希を「おもちゃ」にして彼女を死に至らしめる共犯者ということになる。深谷は「障害者にしてはうまい」というレヴェルではなく、障害者の一部は「ある能力については健常者よりも上」であり、その能力を最大限伸ばすことを重視するような福祉の在り方を模索しており、その成功例として由希を利用しようとする(ちなみに深谷の由希に対する一連の行動の動機はこうした野心的なものであると同時にかつての過ちへの反省でもある。)。東野は自分よりも才能のある由希に嫉妬を感じつつ、ルー・メイのコピーではなく由希自身の音楽=至上の音楽=ハルモニア(これは『カノン』において天才ヴァイオリニスト・香西康臣が創り上げたことになっている純粋に観念的かつ理想的な音楽とほぼ同義である。)を作り上げることに執心し、結局それがもとで彼女の脳にこれまた過負荷をかけることになる。『マイ・フェア・レイディ』では、上流階級の用いる言語及び作法の強制による下層階級女性の上流社会への組み込みは紆余曲折を経てなんとか成し遂げられたわけで、それなりのハッピーエンド(?)になっていたけれど、本作品はそういったものへの痛烈なアンチ・テーゼとなっている。これは、結局のところ「教育」とは何か、という問題提起であり、天才教育への痛烈な批判でもある。もう一つ付け加えるなら、この作品はオーストラリア映画『シャイン』のような余りにも馬鹿馬鹿しい「ある天才(なのかな?)ピアニストの挫折と成功」物語を明らかに意識し、根底から批判しているようにも思う。
なお、『カノン』と同様に主人公はチェリストで、J.S.バッハの曲がふんだんに用いられているが、両極端な結論部を持つ両作品自体が実は対位法をなしているのであり、2作は併せて読むことによりその意図をより明確に把握し得ること、そして両作品の中でそれぞれの主人公が扱う共通の楽器であるチェロは、実は両作品の通奏低音を奏でている、という読み方が出来るのだということを述べておきたい。
ただ、それなりに良く出来た本作品が、『カノン』に比べ、やや興趣をそいでいるように思うのは由希のガラスを割り、物体を飛ばし、近くにいるものに過去の嫌悪すべき隠された記憶を想起させるという「超能力」の過剰な強調だろう。由希は脳の障害によって音楽的才能と超能力を同時に得ることになるのだが、超能力は余計だと思う。これがなくとも物語は成立するし、それどころかそんなものは却って無い方が物語は俄然現実味を帯び、話もすっきりして良かったのではないだろうか。超能力によってまわりの人間に迷惑をかけることから矯正なり、最終的には再手術が必要になるわけだけれど、別にそれは彼女の創り出す音楽そのものが人を幸福にも不幸にもするようなものであれば済むことなのではないかと思う。『カノン』では康臣の遺したカセットテープに吹き込まれた音楽がそういう働きをすることになっているのだから、ここでもそれを繰り返せば良かったのではないかと思う。
ちなみに、339頁で東野は文字通り「暴走」した由希の力のために手の平に火傷を負うのだが、これは多分庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリオン』からの引用である。それだけではなく、篠田が、心を閉ざしながら東野にはしばしば微笑する由希を「綾波レイ」、彼女が唯一心を通わせる指導者である東野を「碇ゲンドウ」に重ねているのは恐らく間違いないことのように思われる。付け加えるならば、近くで血を流している子供がいても見向きもせずにイヤホンをつけてCDを聞き続ける由希の姿は明らかに「碇シンジ」を意識したものだし、そもそもシンジもまたチェロ弾きなのだし、泉の里の施設長・中沢が口にする「同調」(p.102)という言葉は『エヴァ』における「シンクロ」と同義なのである。他の作品にも度々見受けられる篠田と庵野のとても偶然とは思えない「シンクロ」は一体何なのだろうか?(1997/12/28)