富岡多恵子著『ひべるにあ島紀行』講談社、1997.9
タイトルの「ひべるにあ」とは字義通りにいえば「冬の国」のこと、詰まるところ現在のアイルランドを意味する。「紀行」とはあるけれど、実はほとんどそんなところはなく、本書が下敷きにしているJ.スィフトの『ガリヴァー旅行記』が虚構であるにも関わらず一応紀行文の体裁を取り繕っていたのに対して、富岡はスィフト批評、ハンナという女性やその他様々な男達との交流、「ナパアイ国」という架空の世界についての挿話等々を細切れの断章にして並べていく、といった手法により、極めて重層的な小説世界を作り上げている。
私にはポスト・コロニアル文学として読むことが出来てしまった。スィフトの有名な『ドレイピア書簡』を引用している、と言えばお分かりの如く、扱われているのは当然のことながらアイルランド問題なのだけれど、「ナパアイ国」なんていうのは誰でも分かるように「日本国」を逆読みしたものだし、その割にそこで行われていること(人身売買・少年少女を用いた買売春・広くは性の商品化)は日本国でも行われていることのような気もするし、この辺りの記述は実は沖縄における少女暴行事件を念頭にした沖縄問題だの従軍慰安婦を巡る一連の問題だの、東南アジア女性による日本国人男性に対する金銭を代償とする性的奉仕などなど、といった「植民地問題」なのだとすら感じさせるものである。
もう一つ、大きな主題として、これまた誰でも知っていることだけれど、スィフトがアイルランドの食糧危機その他の窮乏状況を改善するための一策として「子供を食えばいいのだ。」なんてことを平気で書き残していたりすることを述べた上で、これと1989年に発生した連続幼女誘拐殺人事件や、上記の人身売買などを絡めながら、富岡は恐らく、端的に言えば「正義とは何か?」「悪とは何か?」という問いを発しているようにも読めるのである。例えば「ノーパンしゃぶしゃぶ」に打ち興じているエリート官僚達を含めた、私から見ればどう考えても正常とは言い難い性的嗜好を有しつつ自らの経済的・政治的な社会的優位性を利用して弱者を性的に抑圧しているような人達は、連続幼女誘拐殺人犯を嗤い、まして糾弾なんてことが出来るのだろうか?また、「自衛」のためと称して防衛費を国家予算に計上している政府や、それに信任を与えている有権者は、同じく「自衛」のためにナイフを持つようになったらしい少年達(私の弟子の中学生も「敵から身を守るため」にバタフライ型を3本、その他数本のナイフを持っている。「『敵』って何なの?」と聞いたら、「まわり全て。」という答えだった。)にそれがなぜ良くないことなのかをどう説明すると言うのだろうか?「それとこれとは次元の違う話だ。」なんて言って相対化するのは止めて、この際もう少し真剣に考えてみたらどうだろうかと思う今日この頃である。ちなみに本書もまた、やや相対化気味かな、という印象を受けてしまったというのが実感である。これって「自主規制」なんだろうか?(1998/03/03)