篠田節子著『女たちのジハード』集英社、1997
直木賞受賞作である。奥付によれば『小説すばる』に1994年から連載されていた連作短編小説に加筆、書き下ろしを加えたものだそうだ。しかし、この人の他の作品を知る人であれば、全然ホラー色のない、「OL」の、強いて謂えばどこにでもありそうな日常を(それなりに色々な事件は起きるわけだが)綴ったこの作品はかなり異色なものに映るのではないかと思う。5人のOLたちそれぞれに異なる人生観だの男性観だのといった価値観がうまく表現されていると思うし、彼女らを取り巻く男性の所作とか台詞などについても細かいところまでよく神経をつかって記述されていて、「こういうのって、確かにあるよね。」といちいち納得してしまう。極めて豊かな人生経験を積んだ方であるようだ。だてに「八王子市役所勤務」をしていたわけではなさそうで、そういう経験が見事に生かされているように思う。
勿論それだけではなくて、文章もよく練られているし、恐らく上野千鶴子だの江原由美子だのといったマルクス主義フェミニズムやポストモダン・フェミニズムなどの文献を丹念に読み込んでおられるようで、男性に媚びはしないが決して対立するわけでもなく、なんとか経済的な自立を図りつつ、より「対称性」を具現するような男女関係の女性の側からの模索が慎重な筆致を以って描かれている。すなわち、篠田は「現実」をきちんと踏まえていて、これまでのこうした小説その他で行われてきた「女の自立」のようなヴィジョンを単純に打ち出すことはしない。どうやらそれに成功したのは事実上の主人公の「康子」とあまり物語の全面には登場しない「みどり」の二人だけであって、「紗織」は自立への道を発見したところで話は終わっているのだし、高給取りの男性との「幸せ」な結婚生活を望む打算的な女性「リサ」は東大卒の医者と結婚はするのだが当初の意図とは相反して「何もない」ネパールへと赴くことになるわけだし(ちなみにそれはリサによってむしろポジティヴに捉え返される。)、「紀子」は暴力亭主から逃げだし自立の道を探りつつやはりなお17歳年上の安定した収入を得ている公務員と結婚し「専業主婦」の道を進むことになるのである。勿論事実上の主人公を康子においたことによって、経済的に自立する女性を理想とみなしているように読まれてしまうだろうことは否めないのだが、かといって篠田は紀子のような人生も決して否定したりはしないのである。
政治・経済的な男女間の非対称性を完膚無きまでに解消しよう、というようなラディカルなフェミニズムがどうやら頓挫したかに見える今日的状況の中で、このように様々な生き方を描くことによって、現実に対応し、それに対する妥協さえも許容しつつ、それと同時に覆しがたい非対称性を産み出している現実を可能な限り客観的に分析しつつ、その非対称性の源泉を探り当て、今度こそはそれを解消しようという最終的な目標を奥深くに潜めつつ、ほんの少しづつの変革を目指すような90年代型フェミニズムの一つの現れがここにあるのだと思う。
そうした地道な活動に「ジハード」(「イスラム世界の拡大または防衛のための戦い。聖戦。」『広辞苑第4版』)などというある意味で過激なタームを用いたことには、この言葉の含意するところがあまりにもラディカルである故に本書で描かれたヴィジョンとはずれているように思われることから、ちょっとばかり問題があるような気もするが、まあ、このタイトルでなければ恐らく私のようなものがこの本を読むことはなかったのだろうから、一応の意義を認めたいと思う。それでもなおかつ、島田雅彦がかつて行った「優しいサヨク」みたいな言い回しをしてくれた方が良かったとは思う。
ちょっと付け加えると、この作品がベースにしているのは間違いなく『フライド・グリーン・トマト』というフェミニズム映画で、後半に出てくる有機栽培トマトの瓶詰め工場計画の話はなんだかこの映画に余りにも似ていて、「これってまずいんじゃない。」と思ってしまった。トマトでなければ誰も気付かないと思うけれど、逆にわざとやっているのかも知れない。但し、あの映画がどちらかといえば男性抜きの「女の自立」を描いていたのに対し、本小説ではトマト栽培のノウハウは康子と結婚することになるだろう「松浦」という男性が所持しているものであって、瓶詰め工場経営のアイディアを考え出した康子とのある意味で相互補完的な関係を描いているわけだ。この辺が、アメリカの一部のラディカルなフェミニズムとの大きな隔たりとも言えるように思う。まあ、そもそも日本の農家はかつては女性なしでは経営が成り立たなかったということも明らかになっているのだし、さらに言えばかつてはそういう形である種経済的な自立をしていたらしいことも言われているのだから、元々日本の農家(ちなみに漁村や山村でも、行商に出ていたのは女性だったらしい。)が持っていた相互補完性を復権させればいいのだ、という発想を抱くのは全然不自然ではないのだと思う。恐らく篠田は大学時代に民俗学の知識を培っていて、瀬川清子辺りを当然読んでいるはずなのだから。(1997/10/21)