Robert A. Heinlein著 斉藤伯好訳『ヨブ』ハヤカワ文庫、1995.8(1984)
少々刊行から時間が経っているが、余りにも面白かったので紹介しておきたい。本書は題名の通り『旧約聖書』の『ヨブ記』のパロディで、主人公アレックス(ハインラインのミドルネーム?)はそれぞれ価値観・政治経済形態・技術レヴェルの微妙に異なるパラレルワールドを、文字通り「神」の手によって無理矢理遍歴させられる中で経験する艱難辛苦を描いたコメディである。遍歴の際伴侶となるのはデンマーク人のマルガレーテ(『ファウスト』のパロディであることは言うまでもない。)。物語の舞台は1994年という時間設定がなされており、二人は一連の遍歴を引き起こす「次元転換」を世界の終わりの予兆と見るのだけれど、実際に終末は訪れてしまい、最終戦争にも発展していくのだけれどそれは措くとして、アレックスが敬虔なクリスチャンであるのに対し、マルガレーテは北欧神話を信じていて、両者の終末観の相違からアレックスはキリスト教的な天国−地獄往還を行うことになり(明らかに『神曲』のパロディ)、マルガレーテはヴァルハラに赴くことになる。これでは二人は別れ別れになってしまうので、ハッピーエンドに導くためには更にメタレヴェルの神学が適用されるのだけれど、そこまでは述べないことにしよう。さて、この辺りのキリスト教を相対化しつつ、人それぞれの終末観、あるいは救済観を尊重しようという姿勢は何となく例えばP.K.ディックの『聖なる侵入』におけるような何でもありの個人主義的救済観をなぞっているように感じられた。原作の刊行は1984年で、ディックの死から2年経っている事を考えると奥の深いものがある(ただし、冒頭の献辞は「クリフォード・D・シマックに捧ぐ」となってはいるのだけれど…。『都市』みたいな作品は確かに意識されているように思う。)。
しかし、このオプティミステッィクな終末観は一体何なのだろうと考えてしまう。A.C.クラークの『地球幼年期の終わり』にせよグレッグ・ベアの『ブラッド・ミュージック』にせよ、B.オールディスの『地球の長い午後』にせよ、J.G.バラードの一連の作品にせよ、全て人類のそれこそ「終わり」を描いているのにも関わらず、これらの作品の描くヴィジョンはさほどペシミスティックなものではないように思う。要するに、「次の段階」が想定されているからだ。これに対して日本の光瀬龍や村上春樹のような人の描く終末観は、「いつまで経っても同じ事の繰り返し」的な諦念を孕むものである。日本人作家でも大江健三郎の描く世界の終末はかなりオプティミスティックなものだ。これを仏教的・東洋的諦念対キリスト教的・西洋的楽観主義と見ることもあながち不可能ではないと思うのだが、ちょっと一般化しすぎかも知れない。ヨーロッパにも極めて厭世的な文学は存在するし(ドストエフスキーだのH.G.ウェルズみたいな。)日本にも石川淳のような晩年になって急に明るくなってしまった希有な作家も存在するからである。
以下は付け足しである。本書には、『出エジプト記』第22章第18節「魔法使いの女は、これを生かしておいてはならない。」の「魔法使いの女」=「魔女」=witchと訳されている語は、ヘブライ語原典では「毒殺者」を意味しているらしく、この誤訳が中世以降の魔女狩りを引き起こしたそうなのだけれど、本当なのだろうか。本当だとしたら物凄いことのように思うのだけれど。「処女マリア」も本来は「若い娘マリア」と訳すのが正しいらしいことはR.ドーキンスの本にも書かれていたけれど、人類の歴史なんてものは勘違いに次ぐ勘違いなのかも知れないな、などと下らないことを考えてしまった。もう一つの付け足し。前の書評にも書いた通りこの本も日本宗教学会・学術大会の帰りに読んでいたのだけれど、研究報告で「火渡り」の話をし、本書の冒頭が主人公の「火渡り」から始まるのを見るに付け、奇妙な偶然というのはどこにでも転がっているのだな、などと、感慨に耽るのであった。(1998/09/21)