佐々木宏幹著『神と仏と日本人−宗教人類学の構想−』吉川弘文館、1996.3
かなり古い論考(1968年)から最新の書き下ろし論考迄を含む論文集。「日本宗教」なるものがあるとするなら、それは「シンクレティック」なものであり、その解明のために著者は、その源流であると見なせるヒンドゥ教・道教・儒教・仏教・原始宗教から説き起こそうとする。それはそれで正しいとは思うのだけれど、それぞれに関する記述はエッセイの域を超えていないし、それらが「日本宗教」においてどのように変形され、受容され、今日に至っているのか、という肝心なことが述べられていないのが不満であった。但し、こと仏教に関しては例外であって、かなり突っ込んだ議論がなされていることを述べておきたい。勿論、本書でいわれているような、僧侶には「死霊」を「ホトケ」や「祖霊」、更には「仏」にする「力」があるという説明にはやや違和感を感じる。日本の僧侶の活動はかなり形式的なものなのであって、祖霊化のプロセスは実のところ柳田のいうように人々が自ずと持ち来たったものであって、仏教とは無関係に存在する文化伝統なのではないかと考えるからである。佐々木氏は「神葬祭」についてどう考えるのだろうか。あるいは、出羽三山における先祖供養に関して。もっと根本的な批判を加えるなら、実のところ、葬儀が行われる以前の死者を人々は「ホトケ」と呼んでしまっているのである。この事実をどうお考えになるだろうか。なお、「戒名」を巡って書かれた書き下ろしの部分について言えば、佐々木氏は戒名こそが差別を産みだす元凶であるかの如く述べられているのだが、これは全く逆なのであって、実際には差別があるから「差別戒名」が生じた、というのが事実なのだと思う。勿論、そうした差別を批判することなく差別戒名を付けてきた僧侶達も糾弾されねばならないのだけれど、それは仏教が抱え込むべき問題ではないように思う。さらに言えば、差別戒名は確かに問題だけれど、そうではない上下に「院」だの「居士」だのがくっついた位の戒名は、目くじらを立てる程のものではないように思う。「一文字十万円」、というのはまずいかも知れないけれど(平山家の事例です。)、それで納得している部分もあり(私は「檀家なんか止めてしまえ」と言ってる口だが…)、それもまた日本宗教の特徴なのではないかとさえ思う。差別戒名のみを問題にして、仏教界全体の在り方を批判するのは、ちょっとルール違反だし、もしかしたら「研究者」の越権行為なのではないかとすら考えてしまった次第である。(1999/01/16)