竹本健治著『ウロボロスの基礎論』講談社ノベルス、1997.9(1995.10)
『ウロボロスの偽書』(講談社ノベルス、1993(1991))の続編である。基本的には作者が初期の作品から続けている「アンチ・ミステリ」のスタイルを踏襲していて、『偽書』でも遺憾なく発揮された「お遊び」感覚は今回も冴えていて、なかなか笑わせてくれるものではあるのだが、ここまで「読者」を突き放すと、そろそろ「読者」の側もそれなりの対応を考えるようになるのではないかと危惧してしまう。本書の基本モチーフは「大文字の作者の消去」にある。これは本書の記述では、本書にも登場する笠井潔の『偽書』批判への返答、ということになるのだけれど、どこまで信用して良いものやら。それが成功しているかどうかはそれこそ「読者」の判断に委ねられてしまったように思うのだけれど、次に行われるべきなのは「読者」の消滅ということになるだろうか。まあ、その場合は作品は存在するのに読む人がいない、という状況が生じてしまうので、結局のところ作品の存在自体を誰も確認できない、ということになる訳である。そうすると、それは例えばS.レムの『完全な真空』(国書刊行会、1989(1971))及び『虚数』(同、1998(1973))といった架空の書物の書評集あるいは序文集みたいな形で既に存在してしまっていて(ちなみに前者で紹介されている『てめえ』なんてのは、完全な読者否定の書である。実在すればの話だけれど。)、やや二番煎じかな、とも思うのだけれど。ちなみに竹本の諸作品へのレムの影響は計り知れないものがある事を付け加えておきたい。レムもまたミステリあるいはアンチ・ミステリと呼べる作品を書いているし、竹本もまた、SF作品を書いていたりするのはなかなか興味深いところではある。
なお、本書は1993年から1995年にかけて連載されたものなのだけれど、1995年刊行のハードカヴァー版の「あとがき」(同年8月29日に書き終えたらしい。)には、同年3月の「地下鉄サリン事件」を明らかに意識した記述が見える。ほんの一部を無断引用すると、「とにかく、物語を−ひいては世界を終わらせたいという願望が問題なのよ。…これだけハルマゲドンという言葉が陳腐化してしまったのも、その手はじめといえるのかも−」。真ん中を抜かしているので意味がとりにくいかも知れないが、基本的にはこの部分ではミステリを含むあらゆる「物語」の「読者」の持つ「終わること」や「終わらせること」への偏執的なこだわりと、それを「作者」に要求する事や押しつける事が批判されているのだけれど、「ひいては世界を」等々の語の挿入によって上掲した宮台真司の「終わりなき日常を生きろ」(『終わりなき日常を生きろ』)という主張とも密接につながってくる。宮台とは5つ違いの著者だけれど、その読書傾向なり、著述のスタイルなり、世の中に対するスタンスなりには随分共通するところがあって、宮台とは7つ違いの私も実は二人と似た読書傾向なりを持っていることから、宮台が言うような、「世代問題」がオウム真理教のような「神政国家」成立の背景を知る上での「糸口」になる、というのはどうかな、と思ってしまう。まあ、絶対年齢をとりあえず無視して、何らかの共通項を持つ一群として「世代」を考える、というのならいいのだけれど。脱線してるな。脱線ついでに、いい加減面倒くさくなってきたので、この文章も唐突に打ち切ってしまおう。(1998/05/17。05/26に少々付け足し。)