植島啓司著 『宗教学講義』ちくま新書、1998.11
小説のような戯曲のようなよく分からない本である。植島の著作はいつもこんな感じだけれど、もうちっとまじめにやってくれんかなあ、と慨嘆することしきりであった。といいつつ、第2章で述べられているように、「洗脳」と「マインドコントロール」は根本的に異なるのだということは極めて示唆的であった。そういえばそうだと思う。身体的レヴェルで苦痛を与えつつ思考様式に変容をもたらす「洗脳」などより、何だか知らない内に思考変容が(多分誰かの異図で。場合によっては誰の異図でもなく。)生じてしまう「マインドコントロール」の方がよっぽど恐ろしいではないか。岡田斗司夫の前掲の著作も『ぼくたちのマインドコントロール社会』と題するべきだったね。その方が著作の異図を理解しやすいし、それこそ著者・岡田は全然異図していないかも知れないけれど、若干の現代社会批判も含ませることが出来たのではないかと思う。それはそうとして、村上春樹の『約束された場所で』においてオウム信者が述べている、「マインドコントロールなんてことはなかった。」みたいな言説も、こうやって考えると良く理解できるように思う。要するに私は、「もっと自己懐疑してくれよ」、と言いたいのだ。無理かな。後述の『ヴァインランド』にもTV文化に毒された現代アメリカという「マインドコントロール」社会が描かれているのだが、それはまた後で、ということにしたい。話がべらぼうに逸れてしまったが、植島のこの本、例えば中身を見ないで教科書指定かなんかしてしまうそれこそ宗教学講義担当者がいたら大変なことになってしまう。もうちょっと考えたタイトルを付けて欲しいものだと思う。実のところ、私自身もタイトルを見て買った口なのだった。(1998/12/28)