松村一男著『女神の神話学−処女母神の誕生−』平凡社、1999.9
田中雅一編による『女神』(平凡社、1998)、雑誌『ユリイカ』の「女神」特集(1998年12月号)と、最近「女神」関連書の出版が相次いでいるけれど、本書は上記2冊にも寄稿していた神話学者・松村一男による学術論文集。当然の事ながら、上記2冊への投稿論文も含まれている。他にも何本か既に読んでしまっていた論文もあったので、実質半分位しか読まないで済んでしまった。それは措くとして、バラバラに発表された論文を殆んど改稿なしで収録しているせいか、特にギリシア神話に関する記述に重複が多くて、そういう所はすっ飛ばしました。それも措くとして、本書で扱われている「女神」は誠に多岐にわたる。旧石器時代の「大母神」、「アマテラス」、「イザナミ」、「神功皇后」、「ヲナリ神」、「ハイヌヴェレ」、「アテナ」、「マリア」、「ダイアナ」等々。テーマも多岐にわたる。余りにも素朴な古典神話学的記述である第1章「大母神から職能女神へ」のようなものから、近年のフェミニズム・ジェンダー論を強く意識した第2章「女性の神話学」、第3章「処女母神の神話学」、第8章「女による暴力と女への暴力」等の各論考。両者の中間に位置するようなその他の論考群。視点乃至立場が一貫していない、というのが一読した段階で感じた印象だったのだが、これに関してはフェミニズム的視点の導入は1990年から1998年という執筆期間の比較的初期に行われた、国立民族学博物館での共同研究における大越愛子・井桁碧・岡野治子等との出会いから始まったらしい事、及びその理解がまだ「不十分」であるかも知れないという自戒が「あとがき」に書かれている(p.293)。各論考間の視点乃至立場の揺れはそうした事情を如実に物語っているのだろう。敢えてそういう揺れを残した、という可能性もある。色々な立場が存在する事自体は恐らく正しいのだから。しかし、一人で記述した一冊の本の各章各章で視点乃至立場が微妙に異なっている、というのはちょっとどころではない違和感があったのも事実である。ところで、実は松村は井桁が攻撃し続けている神話学者・吉田敦彦の弟子なのであり、そのせいもあって、吉田の見解を随所に散りばめつつも、さすがに名指しで批判する、という事は行っていない。論争までは発展していないかも知れないが、吉田v.s.井桁という構図を、松村がどう見ているのか、という辺りに興味を持って読み始めたのだけれど、そうした記述が無いのが残念であった。まあ、そんなことは言わずもがなで、可成り明確に「親殺し」に近い事を行っている松村の研究態度は、実に立派と言うべきものなのであって、私も見習わないといけないな、などと思う。(2000/03/10)