島田荘司著『涙流れるままに』光文社、1999.6

1996年の『龍臥亭事件』(光文社)以来、久し振りの長編ミステリ新作ということになるのだろうか。ただし、細かいチェックを入れていないので、間違っているかも知れない。本作は、いわゆる警視庁捜査一課の刑事「吉敷竹史」ものに属する。私立探偵(占星術師?)「御手洗潔」ものとは若干テイストを異にするこのシリーズだけれど、これまでのところ基本的には「本格推理小説」という枠組みは守られてきたように思う。今回は、最早見まごう事なき「社会派」ミステリである。本作のテーマは基本的に二つある。一つは「冤罪」。近年『秋好事件』や『三浦和義事件』といったノン・フィクションを上梓し、「冤罪」について思考を巡らしてきた著者の、創作レヴェルでの一つの集大成、とも言える。もう一つは、吉敷竹史の元妻・加納通子の波瀾万丈の半生を描くこと、である。これまでの作品では、恐らく過去に何かあったのだが、意図的にかあるいは無意識の抑圧によってそれを語ろうとはしない謎めいた女性、として登場していたのだが、本作において全てを「思い出す」ことになる。「思い出す」にカッコをつけたのには意味がある。それはこういうことだ。過去の忌まわしい経験からのがれるために通子は偽の記憶を作りだすのだが、それは最終的には克服され、実際に起きたこと、すなわち真の記憶を想起する、ということになる。しかし、偽の記憶と真の記憶を、どう区別するのか?一応物証が出てくるのだけれど、それだけで真の記憶である、という根拠になるのか?真の記憶と考えているものも実は今日的視点からの再構成=偽の記憶に過ぎないのではないか?などといった疑問が沸々と浮かんできてしまう。ましてや、その記憶がもう一つのテーマである冤罪か否かが問われている刑事事件に絡んでいるのだから、事は重大である。過去を自分ないし自分の属する社会なり国家なりの都合のいいように再構成する、というのは歴史修正主義者達の常套手段だけれど、刑事裁判などというのも、結構そういう部分をもっているものなのだな、などと、物凄い脱線をしつつ、評論を終える。(1999/12/08)