大江健三郎著『宙返り』講談社、1999.6
『燃え上がる緑の木』三部作終了後の絶筆宣言を経ての活動再開第1作。これを読む限り、あの絶筆宣言も本作を執筆するための「宙返り」だったようにさえ思えてくる。本書で描かれる、かつては2,000人の信者を数えたという新宗教教団の中心人物・「師匠(ルビ:パトロン)」と「案内人(ルビ:ガイド)」の棄教=「宙返り」とその10年後の活動再開は、自らの執筆活動と重ね合わせの関係にある事は間違いないのだから。

さて、その大江をして活動再開に向かわせたのはオウム真理教が引き起こした一連の事件である事もまた間違いのないことで、それはあの事件に関して、直接名指しで、繰り返し繰り返し言及している事から明らかだろう(ちなみに「加賀医師」のモデルはどう考えても林郁夫服役囚である。)。考えてみれば、大江の作品に常に表れていた「終末論」、それもはっきりと「核戦争」乃至「核汚染」による終末の訪れ、というヴィジョンは、オウム真理教の終末観にも、それなりの影響は持っていたのではないか、という気がする。直接ではないにせよ。その事に関連して言うと、大江は近い内に起きるだろうと想定されていた核戦争や核汚染その他の環境破壊によってもたらされる終末という事を前提にその諸作品を執筆し続けてきた事になるのだけれど、どうやら終末がさほど近い事ではないらしい状況に変化してきた事、そればかりヒステリックに叫び続ける事は単に恐怖心を煽るだけで、抜本的な問題解決になりはしない事に思考が及んだようで、終末は遅くとも100年後には到来するだろう、という形で延期され、今の内に悔い改めれば何とかなる、というそれが出来れば誰も苦労しないちと甘っちょろいかな、とも思えるような楽観的ヴィジョンが提示される。

これに関しては、単に時間が延長され、解決手段が穏健なものに変化しただけで、何やら、これまで大江が書いてきた諸々の事と基本的には余り変わっていないではないか、という気もするのだが、大江は本作中でやや自嘲気味に自己言及している。すなわち、「きみは単純なくらいの生活を一貫させている人間だね。」(「下」p.404)と。本書では、癌や各種の身体障害への言及も、大江作品に於ては恰も決まり事であるかのように表れている事も付け加えておく。

ちなみに、自己言及に関して言うと、本書では大江の作品では珍しく『宙返り』というタイトルの書物自体への言及すら存在する(「上」p.241)。この辺が、本書における数少ない新味の一つだろうか。「下」459-460頁における「文化人類学の帝国主義」への言及も、新味と言えなくもないけれど、やや唐突な感じだし、もっと深められても良いテーマであるにもかかわらず、極めてあっさりとしたものである。そもそも、本書で描かれた教団の思想がキリスト教をベースにしたものなのに、文化帝国主義の最たるものであるキリスト教についてどう考えているのかが明瞭ではないのが気に掛かる。「下」197頁及び451-2頁におけるインターネットへの言及は語法がおかしい。大江はインターネットを「立ち上げる」などと表現しているけれど、お判りの通り、立ち上げるのはサーバーないしOSである。語法についてもう一つ気になったのは、「平仮名に傍点をふったよな(2文字傍点あり)」(「下」p.436等。『ヨナ記』の「ヨナ」です。)という表記。これが台詞の中に入っているのだけれど、発音された言葉に傍点を振る訳にはいかないので、これとカタカナの「ヨナ」をどう区別するのかが分からない。実際には発話される文脈で分かるとは思うのだけれど。大体、傍点を振る、という発想自体が、記述する段で初めて出てくるものな筈で、口頭レヴェルでは傍点なしの「よな」という所までしかいかないのではないか、とも思う。

以上、細かい所に味噌を付けてしまったけれど、やはり、人類の危機や救済についてこれだけストレートに、しかもとことんまで突き詰めて語れる作家というのはこの人位しかいないのだから、敬意を表したいと思う。なお、前作に輪をかけて読み易くなった文体は特筆に価するものである。大江の創作活動は基本的に文章表現を通じて社会変革を目指すという所に在る訳で、その為には若い人(大江的には「新しい人」)を動かさなければならないらしく、それ故にかつての作品に見られたような晦渋な文章にはついていけないだろうと大江が恐らく考えているそういった人々の為に文体上の改良、つまりは読み易いものにする努力を重ねてきた事が良い形で実を結びつつあるように思う。ウェールズの詩人・R.S.Thomasの作品についての講読会というプロットが冒頭直後に置かれていて、「またかいな…」と思ったりしたのだけれど、今回は余り深入りしていない。また、『ヨナ記』への言及も最低必要程度に押さえられている。全体を「師匠」の受難と言行をその側近の一人が記述していく、という「福音書」的な叙述法で纏めた事も功を奏していると思う。一言で言って、とても読み易いのである。ますます軽快になるのだろう文体で近々書かれることになるのだろう本書の続編の刊行を心待ちにすることにしたい。(2000/03/18)