大橋英寿著『沖縄シャーマニズムの社会心理学的研究』弘文堂、1998.4

 これまた、大橋氏による博士論文の単行本化である。700頁を超える大著で、それなりに値も張るのだけれど、泣く泣く買うしかなかった。長年のフィールドワークに基づいた事例の集積量は誠に圧倒的なもので、本書は少なくとも資料としての価値はかなり大きいのではないかと思われる。
 しかし、以下、苦言を述べさせて頂くならば、本書のタイトルにある社会心理学的な分析は全11章のうちただ第1章第3節の「社会心理学的アプローチ」の説明と、「ユタの成巫過程」と題された第4章のみにおいて行われているに過ぎないように思う。「ユタ」に対してのみ行われたロールシャッハ・テストの結果について考察した第5章「ユタのパーソナリティ・世界観・変成意識」は心理学から一歩も出ていないし、ここにおいてこそ社会心理学的な分析が効果的だと思う第6章「主婦の社会化過程とシャーマニズム」でも、質問紙による面接調査の結果を並べているだけで、社会心理学的な分析らしいものはほとんどなされていない(ちなみに、本章の質問項目中の「信仰する宗教」の中で「祖先崇拝」が「キリスト教」、「創価学会」、「仏教」、「生長の家」、「神道」、「世界救世教」、「天理教」などと並べられているのだけれど、それをいう前に「ユタ信仰」という項目があっても良かったのではないだろうか。「祖先崇拝」という語も非常に気になるところ。「信仰なし」の人達でも、位牌祭祀や墓参り位はするはずだと思うのだけれど。そういうのはどうなるのだろう。また、創価学会は仏教だし、天理教は神道だと思うのだけれど、これについてもどうなんだろう。)。また、第7章、第8章は副題に「信仰治療と現代医療の機能連関」とあるようにあくまでも医療人類学的な分析である。さらに、第9章「非行への対処行動とシャーマニズム」では少年少女の非行について述べられているけれど、非行なんてのは大人だってするのだし、家族成員の非行は結局家族にふりかかった災難に含めてしまうことも可能なわけで、そうするとこの章は対象が変わっただけで、要はやはり社会心理学的な分析とは言えない第3章「地域社会におけるユタとクライアント」で述べられていることとは余り変わりないように思う。第2章「沖縄史におけるユタ」は言わずもがなであるし、第10章「ブラジルにおける沖縄シャーマニズムの展開」でも分析方法は第3章と大差ない。第11章「総括」については、述べるまでもあるまい。結局のところ、社会心理学的な分析法が用いられていない以上、その効果について云々することは出来ないと思うのだけれど、要は使えなかったから使わなかったのではないか、という疑心に駆られてしまう。民俗学的、宗教学的、人類学的な分析で充分、ということなのかも知れない。もしそうではないと言いたいのなら、社会心理学的な分析によって、民俗学、宗教学、人類学における先行研究で明らかにされてきたことを凌駕出来たことを明示しなければならなかったはずなのだが、本書の結論であろう、沖縄には「信仰治療共同体」が存在して、「ユタ」となる人々に対しては「カミダーリィ」から成巫へという道筋や、クライアントとなる人々に対しては主として精神的な疾病に対する治病システムが社会・文化的に備わっている、などという見解には、特に目新しさを感じないのである。マリノフスキー流の機能主義的な呪術・宗教論と大差ないのではないかと思う。
 個人的には、より発展的な議論が可能だと考えるのは、第2章で述べられた「ユタ禁圧」の歴史と、第7章で述べられた「沖縄の精神医療史」との関係辺りではないかと思う。本書によれば、沖縄に精神科が出来たのは1950年のことであって、この辺りの事情を考えると、M.フーコーの西欧の精神医療史・狂気史に関する議論によれば、「精神病」というのはまさしく近代における「精神医療」と同時発生的なものらしいのだけれど、この辺のことが沖縄においてはどうなのか、ということは大変興味深いように思うのである。せっかくの具体的な事例研究に基づいた「沖縄における近代精神医療史・狂気史」が書けそうなところなのに、誠に残念である。「本書はあくまでもシャーマニズム研究なのだから」、という反論もありそうだけれど、シャーマニズムとそうしたことの関係について少なからず言及した以上は、よりつきつめた議論を行うべきだったのではないかと思う次第である。ところで、本書にはM.フーコーの名前が出てこないのだけれど、ひょっとしたらお読みになっていないのだろうか。まさか、「そんなはずは」、と思うのだけれど、どうなんだろう。(1999/05/17)