笙野頼子著『パラダイス・フラッツ』新潮社、1997.6
言葉が新たに創始されたり、あるいは既に存在する言葉が新たな意味を付与されることによって問題化されるようなことは人類の歴史上多々あったことである。アメリカ合州国において近年問題化された、私見では早くも死語になってしまったと思われる、いわゆる「ストーカー」あるいは「ストーキング」というのもその一例である。その意味するところは本来かなりの物理的な暴力性を伴うものに限定されていたようだが、その後日本に輸入されるに及んではかなりの概念の拡張が生じたらしく、広義の心理的な暴力性を伴うものに関して、やや乱用気味に用いられるに至ったのは周知のことである。
笙野頼子もその辺りの事情はきちんと押さえていて、決して本書に登場する過剰なまでにお節介なマンション管理人を「ストーカー」であるとは一言も述べていない。ただ、ここでは今のところは、「社会的に優位な位置にあることを利用しつつ、下位に置かれた人々に対して過剰なまでの好奇心を抱きつつ、その私生活に直接的な介入すること」という説明的な表現で表すしかない行為を行って満足感を得るというさもしい者たちの存在を、問題化しようと試みていることになる。あとがきではこうした今のところそれを表現するのにふさわしい社会的な合意を得た言葉がない以上は、そうした行為者や行為に「ストーカー」あるいは「ストーキング」の語を当ててもいいのではないかと提案しているのだが、現状ではそういう方向には向かっていないように思う。さて、「主として小中校生間に見られる、集団あるいは個人による、特定の個人に対する、物理的暴力や心理的圧迫を伴う圧力や疎外といった一連の現象」に対しては「いじめ」というどこから出てきたかよく分からない見事な(?)ネーミングが施されているわけだが、だからといって何も解決はしていないことはこれまた周知の通りである。私見ではこれは「いじめ」という語があまりにも漠然としていて、この語が法律用語ではなく、今後も恐らく誰もこの語を法律に使おうと考えていないからそういうことが起きてしまっているのではないかなどと考えてしまう。もし「ストーカー」という語が定着したとしても同じことになるのでは、と勘ぐってしまった。確かにそういう個人(特に社会的な弱者)の力では解決できないような問題が生じてきていて、それを社会的に何とかしようというのが法なり、規範なりの存在意義だと思うのだが、それを表す的確な言葉がないというのは致命的である。本書に登場するマンション管理人の自称である「ナウィマチェ」(どういう漢字が当てはまるのだろう?)というわけにもいかないだろうし。何とかならないものだろうか?
付け加えると、本書を読みつつ、M.フーコーの『監獄の誕生』(新潮社)及びP.K.ディックの『暗闇のスキャナー』(創元推理文庫)を想起してしまった。本書で述べられているのは「ストーキング」だの「ストーカー」などという一語で片づけてしまうわけにはいかない近代の「相互監視社会」における近代的自我に目覚めた「個人」の苦悩である。要するに近代の延長である現代の何とも生きにくい状況を描いているのである。私自身もそれをひしひしと感じつつこれまで生きてきた一人なのだ。(1998/02/09)