宮部みゆき著『理由』朝日新聞社、1998.6
 以下は、某日ある場所で行われた、ある人物(仮にAさんとしよう。)との会話である。
 −結局読んでしまった、と。
 「ええ、あんまり暇なもんで…。それもあるんですけど、ちょうど確定申告の帰りに駅の近くの古本屋さんに寄ったら定価の半分くらいで売っていたもんでね。これはラッキー、と思いまして。」
 購入以来、かなりの時間がたっているのに、随分と細かいことを覚えているものだ、と感心しながら話を続けた。
 −で、どうでした?
 「この本、随分太ってるな、と。で、重さを量ろうと思ったんですが、このネタは前に使ったんで、やっぱり止めました。」
 こっ、こいつふざけてるのか、と思わずパンチを繰り出しそうになったが、気を取り直して、続きを促した。
 −中身のことですよ。印象に残ったこととか、気になったことなんかないですか?
 「よくもまあ、これだけ大量の人物を登場させた上で、それなりに複雑な人間関係だの事実関係だのをうまいこと整理して描き切ったものだと感心はしました。でも、話自体は詰まらないですね。ちょっと単調過ぎます。謎らしい謎もないしね。ミステリといったら、やっぱりラスト近くにめくるめく謎解き、どんでん返しの応酬みたいなものが無いと…。」
 −そういう意見もあるとは思いましたよ。確かにこの本はミステリというよりは犯罪小説、ないしはクライム・ノヴェルという方が正しいと思います。付け加えると、現代社会における家族の解体をテーマにした社会派ミステリ、という風にも読めないことはありません。
 「そうなんですか。まあ、そんなことは別にいいんです。面白ければね。」
 確かに、それは一理あるかも知れない。当たり前過ぎることだけれど、面白さ、というのはきわめて重要だ。そもそも最近のこの手の小説でさんざん使われている家族の崩壊ネタにはもう食傷している、などと思いつつ、その辺についての話が聞けるかも知れない、と考え、更につっこみを入れてみた。
 −面白くない、と。
 「ええ。はっきり言って。」
 −どこが問題なんでしょうね?
 「さあてね。そう言われてもねえ。面白くないから、としか言いようがないんですよね。」
 アホか、こいつは。こりゃあかん。このままでは、書評にならないのでは、という危惧を感じ始めた。そこで、Aさんとの対話は打ち切って、Aさんのもう一つの人格(ここではBさんと呼ばせてもらうことにする。)を呼び出した。
 −いかがでした?
 「私個人としては面白くない、とは思わなかったのですが、気になったことがあります。」
 −何が最大の問題なんですか?
 「やっぱり、ディテイルのデタラメさではないでしょうか。」
 うわっ、来たぞ。
 −例えば?
 「268頁からの「足入れ婚」についての説明なんかはその最たるものでしょうね。もしかしたら島根県特有のローカル・ルールなのかも知れないけれど、例えば『広辞苑 第4版』には「婚姻の成立祝いを婿方ですませると、妻は実家に帰り、その後ある期間は夫が妻問いの形式をつづける習俗。」と書いてあって、この方が一般的だと思いますよ。著者である宮部みゆきが創造したこの本の叙述者のノン・フィクション・ライターらしき人物は、妻が夫方に一時的に住み込む形式を「足入れ」としています。これは事実の「ねじ曲げ」ではないでしょうか。」
 何やら専門知識のひけらかしのような気もしたが、いいところに気が付いている。こいつは使えるかも知れない。
 −他には?
 「文体の問題もありますね。この小説には、今超越的な記述者であるあなたが模倣している問答形式のノン・フィクション・ドキュメント風の部分と、超越的な記述者によって書かれている小説風の部分が交互に現れます。意図的なものなのでしょうが、今更J.Joyceでもないんだから、文体はどっちかに統一した方が良かったのではないかと思いますよ。途中でこのドキュメンタリー風の部分はどこかに発表されている、というような記述があったような気がしますが、そうすると、小説風の部分は一体何なんだ、ということになりますよね。」
 ふむふむ。ちょっとメタなところが気になるけれど、なかなか鋭いではないか。しかし、またもや「アイルランド」の方へ話を無理矢理引っ張っていこうとしているようにも感じられた。くどいなあ。危うく第三の人格・Cさんに登場願うところだったが、結局それは杞憂に終り、Bさんは「アイルランド」ネタに移行することなく、更には何とも楽ちんなことにこちらが質問しないでも、問題点を次から次へと指摘し続けた。
 「77頁と203頁の記述における齟齬は見逃せません。前者と後者で、同じ人物であるはずの電話の受け手が異なっています。物理的にあり得ないことです。198頁の小糸静子の台詞中で「主人」という語が使われているのも不自然です。196頁でこの人はこの語を使うことをはっきりと拒否しているわけですから。400頁には誤植があります。「法律とか絡んだ」云々。「が」が抜けています。えっ、細か過ぎるって?そういう性格なもので。続けますよ。445頁は本当に無茶苦茶な記述で、目も当てられません。ここでいう「三番目のパターン」って、何なんでしょう?なお、この部分とも関わるのですが、初動捜査の段階で明らかになったはずの死亡推定時刻に関する記述がこの小説では結局現れません。想定されている書き手はプロのノン・フィクション・ライターなのだから、警察からその位のことは聞き出せるでしょう?ついでに言うと、犯行に使われた凶器についても全く触れられていません。犯人は手袋をしていなかったのでしょうから、指紋が残っていなければおかしいのです。警察は石田直澄が真犯人ではないことを最初から知っていたはずなんです。重要な参考人を最後まで指名手配にしていない、とはいえ、マスコミが犯人扱いしているのは分かっているのですから、警察としては最も疑わしい人物は既に死んでいることを早く発表すべきだし、普通するでしょう?話は変わって、486頁からの記述にある「田山市」は架空の市なのですが、京浜東北線で秋葉原から「一時間余り」ということは絶対にあり得ません。大宮までだって一時間はかかりませんよね。勝手に伸ばさんでくれ、と言いたくなります。この人の距離感覚のなさは『クロス・ファイア』にも如実に表われていますが、本書でも383頁に自動車で30分もかかる「特別養護老人ホーム」を「近く」だなどと書いています。埼玉県深谷市のような郊外で、自動車で30分といったら、どう考えたって20km以上は離れているわけですよね。どこが近いんだか。話を「田山市」に戻しますが、ここで唐突に、本書中では恐らく初めて架空の地名を使われると、荒川区千住だの江東区高橋などという実在の地名を何故用いたのかが良く理解できなくなってしまいます。それぞれ殺人現場と最重要参考人の隠遁地なわけで、小説とはいえ朝日新聞夕刊に連載されたのですから、イメージ・ダウンにもなりかねませんよね。特に後者は…。」
 永遠に終らないのではないかと再び危機感にさいなまれ始めたので、一旦休憩をいれた。
 どくだみ茶を一服して再開。
 −何か一つでもいいですから、印象に残った部分などはないですかね。もちろん、良い意味で、なのですが。
 「ありますよ。542頁の「弱いってことは強いってことなんだよねえ」という石田直澄の台詞。これは素晴らしい。F.Nietzscheみたいですよね。もちろん、Nietzscheはルサンチマン的な道徳の批判として、皮肉を込めてそういうことを書いていたわけですけどね。そうそう、今年はNietzscheの没後100年目に当ります。J.S.Bach没後250年と合わせて、ドイツでは大いに盛り上がっているのではないでしょうか…。」
 今度は「ドイツ」ネタ?そんなの聞いてないぞっ!ところで、あんた、誰?(ENDE)(2000/03/12)