池田清彦著『科学とオカルト−際限なき「コントロール願望」のゆくえ−』PHP新書、1999.1
うーむ。あんまり面白くなかったな。前半の中世から近代初期における科学とオカルトの関係を巡る記述は常識的だし、後半の現代の科学とオカルトの関係を巡る記述はかなり杜撰なものだ。前者の「オカルト」と後者の「オカルト」は歴史・社会的なコンテクストが異なるものだし、内容も随分と違うのだから、池田の言う「対応関係」についてのみ語ることが出来る科学的な記述をしようとするのなら、別の事象に対しては別の「コトバ」を用いてきちんと「分類」するべきなのではないだろうか。どうも、現代において、科学では語れないことについての言説その他は全て「オカルト」である、というのは余りにもことを単純化し過ぎているように思う。147頁辺りの、ほとんど紋切り型といっていい、近代において身分制度が廃止され、その結果自分のポジションについての懐疑が生じ、それ故に「かけがえのない私」を見出すべく、「オカルト」に走るのだ、という議論は、はっきり言って印象論に過ぎないし、論理的でもない。別に、「オカルト」じゃなくてもいいのでは、と思う。「哲学」に行く人もあるだろうし(この場合は悩み続けるのだろうけど。)、「心理療法」で救われる人もいるだろう(W.ジェイムズが100年くらい前に書いた本にもそうした事例はたくさん出ている。)。更には、池田が「オカルト」と呼ぶものにしても、必ずしも「かけがえのない私」探しのためにあるわけではない。何でサリンを撒くことが「かけがえのない私」探しになるんでしょうね?これは極端な例だけれど、現代の「オカルト」に関してはもう少し微に入り細に入った分析が宗教学などで行われているのだから、そういうものをちゃんと読んで欲しいと思う。その形跡が見られません。話がオウム真理教に関してのみに収斂しているのも頂けないな。一言で「カルト」といっても、千差万別、多種多様なのが現実だと思う。そういうことに言及しないのは「公共性」のある著作を世に出すものとして、無責任ではないだろうか。書かれたものを鵜呑みにする輩が多いのは事実なんだから。もう一つ。副題の「コントロール願望」についてだけれど、池田はそれを「超能力」を身につけようとすること、とみなしているようだが、これが何故に特定の「カルト」においては「信者のコントロール」になっていくのかについての考察を行っていない。二つのコントロール願望は、個人的と集団的という意味でかなりの隔たりを持っているような気がするのだけれど、確かに結びつきが無いわけではないとは思う。この辺りはそれこそ宗教社会学的に追求されなければならないテーマかも知れない。自然界の問題については「因果関係」を語ることは無理、というのは分かるのだが、少なくとも社会の問題については不可能ではないかも知れないのだ。社会の問題についても自然界と同様に「対応関係」だけを見ていれば良いのだ、といわんばかりの強引な論述なのだが、頂けない。最終的には「対応関係」しか語れないことになるかも知れないとは言え、更に細部に分け入る余地は残されていると思う。なお、付け足しとしか思えない第[章は三文SFの域にも達していない、ショウモナイものだ。正直言って、読んでいる方まで恥ずかしくなってしまった。(1999/01/27)