篠田節子著『聖域』講談社文庫、1997(1994.4)
『女たちのジハード』で直木賞を受賞した篠田の3年前の作品。なんだかほぼ同じ時期に書かれた私の修士論文を読んでいるような気分にさせられた。私がそこで扱った岩手県に本拠地を持つ某宗教法人が実名(これはまずいよ。)で登場するし、『聖域』というタイトルの未完成原稿を残して失踪した謎の女性作家・水名川泉はいわゆる「カミサマ」だったりする。
所々事実誤認も見受けられるので指摘しておきたいが、例えば薄衣は「うすごろも」ではなく、「うすぎぬ」と読むのが正しい。また、「オガミサマ」の入巫前の修行についての記述もおかしい。穀断ち・塩断ち・火断ちなどをする「前行」は岩手県南・宮城県北では100日間ではなく21日間である。
まあ、それはともかくとして、この小説の最大の欠点はその人物造形の不適切さである。実藤という文芸誌編集者が主人公かつ語り手になっているのだが、民俗学や宗教学の知識が、不自然な形で備わっていたり備わっていなかったりする。彼が押井守が昔作っていたアニメーション作品を理解出来ないという設定もおかしいと思う。そんな程度の人間に文芸誌編集者が務まるだろうか?さらにこのことは、彼の生活スタイルや外見が明らかにオタクを想起させることとも矛盾している。大体、篠田の文体は揺れが大きくて、誰の視点で書いているのか、つまり超越的な位置に立つ作者なのか、実藤なのかが分からなくなることが多いのだ。
もう一人の重要な人物である水名川泉という女性作家の人物造形も大変不自然なもので、私には全く納得がいかない。教団を作ってしまうような人は私の経験からいってもっとしたたかである。さらに泉が作った教団を乗っ取る「悪徳宗教家」が登場するが、なんだかマスコミ報道にありがちな紋切り型な描かれ方をしているのが気になった。作者の新宗教についての理解は極めて浅いように思う。教団経営というのは、実のところとてつもなく大変なのである。宗教法人がそんなに簡単にお金儲けが出来ると思うのは素人考えです。はっきり言って。
私の修士論文との関連でいうとすれば、篠田は「霊魂とは生者が持つ死者についての記憶なのだ」、というヴィジョンを打ち出しているわけだが、これは大甘な分析であると思う。詳しくは私の論文(『白山人類学』第3号所収)を参照して頂きたいが、私はその記憶というのは個人的なものというよりは、もっと社会的な事象なのであり、オガミサマやカミサマを含めた死者がかつてそこで生活していた当の社会に属する人々に分有された記憶なのであると考えている。
それはともかくとして、最後のところが尻切れトンボな感じがするのは否めないけれど、これについては、小説内小説である『聖域』を自己言及しているわけだから、基本的には問題はない。例えば庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリオン』だの、奥泉光の最近の各小説で用いられている手法もこれなんだと思う。作者が自分の作った作品という虚構の迷宮にはまり込んでいく、という図式である。ただ、だからこそ前述の文体の揺れが気になってしまうのだが・・・。
ところで、この篠田という作家は、学芸大にいた頃に誰の指導を受けていたのだろうか?桜井徳太郎・池上良正・川村邦光を読んでいるのは間違いないだろうけれど。ただ、日本人の民俗的心性についての理解に関しては、大江健三郎や京極夏彦(すごい組み合わせだ。)には全く足下にも及ばないものであることだけは明言しておきたいと思う。(1997/9/25)