土屋恵一郎著『ポストモダンの政治と宗教』岩波書店、1998.5
タイトルにある「ポストモダン」については余り気にしないで読まれるといいように思う。今日ではこの語だけで「引いて」しまう場合も多々あるのではないかと思われるからである。ただ、本書で言う「ポストモダン」という語は、価値の一元化を推し進めるイデオロギー及び現実としての「モダン」に対して、そうではない別の在り方を模索する立場あるいは別の在り方そのものという意味で用いられていると思うのだけれど、ここではこれまでの議論で往々にして見られた「アンチモダン」あるいは「プレモダンへの回帰」を謳うものではなく、あくまでも近代合理主義を真っ向から否定するのでないやり方でそれを乗り越えようという方向性が明確に打ち出されているように思う。それ故に、著者の議論の土台には基本的には「モダン」の思想家だと考えて良いだろうJ.S.ミルの「自由」を巡る議論が置かれている事は極めて示唆的なのである。
さて、本書では、日本における「肉食」を巡る問題、「死への植民地主義」という語で表現される米国における「アメリカ先住民」の遺骨の再埋葬を巡る問題及びそれと関連する日本における「個人墓」を巡る問題、同じく日本国内における「エホバの証人」信者の「輸血拒否」問題、あるいは北米及び英国におけるモルモン教徒の「一夫多妻制」を巡る問題、主として米国における「妊娠中絶」の是非を巡る問題、インドでの「サティ」(夫の死に際して妻も共に死ぬこと)を巡る問題、イスラム圏での女性の「性器切除」を巡っての問題等々が扱われているのだけれど、こうした実例を題材として取り上げること及び、「ポストモダン」を標榜する著作にありがちな難解かつ晦渋、あるいは皮肉っぽく言うなら曖昧とも言えるかも知れない表現や術語の振り回しに堕することなく、可能な限り分かりやすい術語を用いることによって、著者の主張は極めて明瞭に提示されているように思われた。これらのそれこそ解決の極めて困難に思われる問題に対処すべく著者が持ち出してくるのは、基本的には前述のJ.S.ミルの議論に見られる、私なりに解釈すると「他人に迷惑をかけない限りでは個人は何をしてもいいのだ」、という「他者被害の原則」を中心に据えた「リベラリズム」を下敷きにしつつ、@「他者」、すなわち異質なものについての「学習」による、「他者」に対する「寛容」の精神を養うこと、Aそうして「多様性」や「多元性」を認めていくような「倫理学」を確立すること、Bさらには「責任」を負える範囲内での「自己決定権」を全ての個人や特定の集団に与えること、Cそうした「自己決定」を全う出来るような社会制度や法制度を整備すること、等々というヴィジョンである。勿論、こうしたことを一気に実現するのはとても困難なことだと言うことは分かっているし、「学習」や「自己決定」を強制する事になりはしないか、あるいは多様な価値を認めることによってそれを自覚的に逆利用あるいは悪用するようなケースが発生しないだろうか、等々という懸念もあるのだけれど、一元化と排除の論理が強まっているように感じられる今日的状況を鑑みると、こういう方向を目指すべきだという著者の主張には賛意を表したいと思う。
なお、やや残念だったのは、日本国内の問題がもう一つ深く考察されなかったことであるように思われる。特に、「妊娠中絶」を巡る問題は、話を一旦日本国内に限定して大いに議論すべきものであろうにも関わらず、議論の中心が北米に置かれてしまっている感は否めないと思う。ただ、「妊娠中絶」を巡る問題を含めて、本書において提示された諸外国の事例や議論を踏まえて、それでは日本国内の問題をどう考えるか、というのが、日本語を解する読者に与えられた宿題なのかも知れない。(1998/06/16)