武井宏之著『シャーマンキング』集英社ジャンプ・コミックス、1998.12-
本欄で既に何度か小出しに言及してきた青森県東津軽郡出身の漫画家である武井宏之作『シャーマンキング』は、『週刊・少年ジャンプ』(集英社)連載の「スーパー・スピリチュアル・コミック」(第12巻の帯より)である。1998年の連載開始から早3年、2001年6月の時点で単行本が第14巻まで刊行されており、同年7月には「テレビ東京」系で全国放送も始まったこの作品、タイトルから考えて間違いなく物語の中心となるのであろう、要するに「シャーマンキング」選びの勝ち抜き戦であり(こういう設定自体は見事とも言える「少年ジャンプ形式」の踏襲である。)、第2巻42頁でその開催が初めて示唆された「シャーマン・ファイト・イン・トーキョー」がようやく描写され始めたのが第13巻なので(ここまで引き延ばしたのは、ある意味「少年ジャンプ形式」の解体とも言える。)、その完結までにはまだまだ相当な時間がかかるものと思われ、こういう中途半端な状況での作品評は評者=平山の最も嫌悪する事柄の一つなのではあるが、ここでは本欄の貴重な読み手の皆様からのご要望にお応えし、取り敢えずの短評を記すことにする。ちなみにそれは、本作品の基本設定に関することへの言及のみとなることを予めお断りしておく。

さて、本作品のタイトルにもなっている「シャーマンキング」とは何か、と言えば、第2巻10-21頁で主人公・麻倉葉(あさくらよう)の祖父である「陰陽師」・麻倉葉明(ようめい)がいみじくも述べているように、「全てのシャーマンの能力を持ち」、「全知全能究極の霊、一般に神≠ニ呼ばれる偉大なる精霊の王」と「一体化できる人間」であり、「人間の歴史上救世主と呼ばれし者達」ということになる(ちなみに、引用元はお分りのように総ルビだけれど、面倒なのでいちいち記載しない。読めない字なんて、幾ら何でも無いですよね?)。

では本作品において「シャーマン」とはどのような者として扱われているか、と言えば、第1巻23頁で自称「シャーマン」の麻倉葉が述べるのは、「シャーマン」とは「あの世とこの世を結ぶ者」なのであるということ、更に詳しくはその次の頁以下でこの物語の語り手・小山田まん太が『万辞苑』なる物語内辞典を引くことによって明らかにするごとく、「自らをトランス状態(忘我・恍惚)に導き――神・精霊・死者の霊などと直接交流する者」であり、かつまた、「それらの力を借りることで病気の治療や政治、死者の言葉をこの世に伝える口寄せ≠ネどを行う宗教的能力者」である、ということになる。

これはあくまでも短評なのでもう三段落位で終わりにする積もりなのだが、要は、上に引用したごとく、本作品における「シャーマン」像は、シャマニズム研究に携わる私自身が何度も引用してきた、佐々木宏幹氏の手による例えば『シャーマニズム』(中公新書、1980)という著書における「シャーマン」の有名な定義、即ち「トランスのような異常心理状態において、超自然的存在と直接接触・交流し、この過程で予言、託宣、卜占、治病行為などの役割を果たす人物」(同、41頁)に忠実に従うものである、と一応言っておきたい。この点以外にも、本作品における諸々の考証が決して杜撰なものではなく、この作者が実のところかなりの学問的研鑽を積んだ人物である可能性を示す部分が多々あるのだけれど、いちいち紹介していると長くなるのでこのくらいにしよう。

なお、例えば上述の本作品における「シャーマン」像から敷衍された、これまた上に引用した「シャーマンキング」についての意味付けは、誠に荒唐無稽なものであり、その他のディテイルにも同様のことが言えるものが多々存在するのだけれど、コミックやエンタテインメント小説の類(たぐい)が荒唐無稽であることはむしろ妥当なことがらであって、むしろそれを競っているとすら言えるわけで、反対にそれを支える根本設定、即ち「シャーマン」の定義付けが研究者間においても定評のあるところから持ち込まれていて、これが荒唐無稽な作品世界に一定の論理性を与えていることは上述の通りなので、野暮な突っ込みは自重することにしたい。そうそう、物語とは荒唐無稽なだけでは誰も評価し得ないし、読解可能ではなくなるのであって、ここではそれらを可能にする根本設定の妥当性だけを、述べておけば充分であると考えるのである。

最後になるが、本作品が図らずも(なのかどうかは分からないが…。意図的なものだったら凄いですな。)シャマニズム研究に貢献してしまった事柄について述べておきたい。それは第4巻44頁に初出する「シャーマン」自身の能力値である「巫力」という概念と、第7巻辺りから数値化され、かつまた強調され始める、彼等の「持ち霊」固有の力を示す「霊力」という概念の分離である。現実世界のシャマニズムを見聞していると気付くのだけれど、シャマニズムとは、シャマンとその依頼者達が担い手となって構成される呪術−宗教文化であり、そこにおいては本作品の基本設定に反映されているごとく、シャマン自身が持つ「力」と同時に、シャマンが守護神・守護霊としている神仏や精霊その他が持つ「力」に対する信仰が重要な役割を果たしているのである。ここで重要なのは、前者があくまでも当のシャマン個人に付随するものであるのに対して、後者がシャマン当人よりはむしろ、その依頼者達が生活する社会に通念として流布したものであるということになる。勿論、シャマン個人の資質=力もいずれは社会通念化していくことになるだろうし、神仏その他の力もそれを守護神・守護霊とするシャマンによってより強力なものとして社会通念化されたり、あるいは社会通念化されたものをシャマンがその資質の一部として取り込む、といったプロセスも存在するだろうが、いずれにせよ、そうしたシャマニズムと社会の関わりにおけるダイナミクスを分析する上でも、「巫力」と「霊力」の分離、という本作品が示した画期的とさえ言える概念構成は、シャマニズム研究においても有効性を持つものであることは間違いない、と考えた次第である。以上。(2001/07/10)

なお、上記紹介文脱稿と相前後して、7月9日の発行日を持つ第15巻が既に刊行されていることを付け加えておく。(2001/07/22。2007/07/14に少々加筆。)