小野不由美著『屍鬼』新潮社、1998.9
上巻はひたすら「外場村」に関する極めて緻密な民俗誌的な記述と、そこで起きているバイオハザードらしき災厄とそれに対処しようとする幼なじみの医師・尾崎敏夫と僧侶・室井静信による原因究明活動を中心に綴られる。下巻では…。いやー、やってくれますなー。物凄い展開です。結構笑えました。しかし、こんな映画があったような気が…。
さて、本書は色々な読み方が出来ると思うけれど、まずは、そのテクストには徹底した二項対立が織り込まれていることを指摘しておきたい。それは、町と村、ウチとソト、火葬と土葬、近代科学と呪術、科学と宗教、脳死と心臓死、成立宗教と新宗教、生と死、正義と悪、「兄」と「弟」、上巻と下巻、そして、人間と「屍鬼」等々である。実は、私個人としては、この小説を「恋愛小説」として読んでしまったのだった。一番面白い部分はなんといっても同村にある日突然越してくる桐敷家の一人娘・沙子(すなこ)と主人公の一人である静信の対話なのであって、始めのうちは沙子がやや優位に立ち、次第に静信が沙子のロジックを乗り越えていくプロセスこそが、とんでもなく勝手な解釈かも知れないけれど、本書の中心なのではないかと思われたのである。その根拠の一つは、「静信」=「精神」と読むことも可能なのであって、文中に挟み込まれ、次第に形をなしていく、作家でもある静信が一連の事件の進行と並行して書き綴っている「観念小説」が、キリスト教的なモチーフを中心にしつつ、その実それこそ静信の精神の弁証法的な発達過程を描いていくべく用意されているように思えるからに他ならない。更には静信の実存的苦悩の精神的・身体的な弁証法的解決に伴って、沙子もまた新たな一歩を踏み出すに至るらしい(続編もあり、ということかな?)。要するに、本書は静信・敏夫を主人公とするパニック小説の体裁をとりつつも、その実静信・沙子を主人公とする教養小説でもある訳だ。3,000枚にわたって血みどろの世界が展開されたにも関わらず、読後感がむしろ爽快なものに思えたのはその辺から来ているのだと思う。
なお、本書の舞台設定を、京極夏彦の「中禅寺」シリーズのそれと対比させてみるのも面白いかも知れない。そこでは時代設定は昭和25年頃になっていて、村落や家族の共同体的紐帯はまだ解体してはいなかったし、呪術もかなりの信憑性を持ち得ており、それ故に作品中に「妖怪」を持ち出すことも可能であった訳だ。本作では、はっきりとした年代が書かれていないのだが雰囲気としては平成に入ってからを時代設定としているらしく、そんな中でかつて木地師が入り込んで出来たという外場村は、開発を拒絶しつつ(あるいはそれから取り残され)、一つの完結した社会を構成しており、土葬の風習、弔組、宮座、講、村の創始者とされる三家の権威、「霜月神楽」、道祖神信仰を保持しているのだが、若年層から壮年層にかけては近代合理主義的な「常識」から、例えば「鬼」のようなものの存在は否定されていて、これが「鬼」達に付け入る隙を与える、というなかなか複雑な効果を生むことになるのである。
なお、冒頭の表題横に「−To 'Salem's Lot」と書かれているのだけれど、このLotとは勿論『創世記』に登場するアブラハムの甥ロトのことであって、そこでは、ソドムの町が焼かれたとき、その妻は「うしろを顧みたので塩の柱」にされたのだけれど、本人は救け出された、ということになっている。本作の冒頭で既に描かれている火災により外場村は壊滅するのだけれど、それでは、本作においてロトやその妻にあたるのは一体誰なのか。この辺り、聖書を傍らにお読みになると本作への理解がいや増すこと請け合い、と申し上げておきたい。(1999/02/05)