山田正紀著『神曲法廷』講談社ノベルス、1998.1
-
麻耶雄嵩の『鴉』に決してひけをとらない傑作。個人的な好き嫌いではこっちの方が上だと思う。寿岳文章訳のダンテ作『神曲』をモチーフに(因みに、「寿岳文章訳」、ということへの作者の拘りが面白かった。私もまた、同書の岩波文庫版は読んでいられないので、寿岳文章訳・集英社版をもって読破したのであった。懐かしいな。)、法曹界を中心に展開する一連の殺人事件その他と、「神」に憑依されたらしい東京地検刑事部の検事・佐伯神一郎の苦闘を描く。
-
-
本作のテーマの一つは「憑依」である。佐伯もそうだが、彼が追いかけることになる失踪した「ポスト・モダン」建築家・藤堂もまた、「狼憑き」ではないか、という疑いを持たれたりするのだし、狂言廻し役として重要な犯罪心理学者・望月は「憑依」によって全ての心理現象を説明出来る、という新説をまことしやかに説いたりするのである。シャマニズムを研究対象とする私には誠に面白かったのだけれど、「宗教人類学的な見地からは、」云々、とあって、それに続いて、「憑依現象というものは、その民族が持っている文化的な遺産であって」(p.243。p.403にも同様の記述あり。)、と書かれているのだけれど、今日憑依現象を「遺産」だと考えている人類学者なんていないのではないだろうか。新たに創出された、という事例が転がっているわけだからね。もう一点。「日本の憑きもの≠ノは圧倒的に祖霊≠ェ多い」(p.473)というのは誤りだろう。蛇・狐その他の動物霊が圧倒的でしょう。勿論、巫者が憑依させる死者の霊を「憑きもの」にカテゴライズするというのなら話は別だけれど、余り一般的な見解ではない。ただ、この部分は、山田が本書を通じて主張したいのだと私には思われた、日本社会には例えば河合隼雄の言う「中空構造」(河合は直接的には言及されていない。)みたいなものがあって、それがJ.G.フィヒテの言う「私は私である」という西欧ではごく当たり前の命題を不成立にし、「私は私ではない」式の無責任体質を生んだり、それが高じて司法制度を不完全極まりないものにしてしまっている、というような日本社会批判に通じているので、やや強引とは言えそう書かざるを得なかったのかない、と弁護したい気もする。そうなのだ、山田は折口信夫の「大嘗祭の本義」を引き合いに出しつつ、日本人にとって身体とは霊魂が憑依する器に過ぎない、ということと、日本の近代建築と、司法制度の不完全さを本書において結びつける、という大技を行っているのである。いやはや、恐れ入りました。
-
-
蛇足。山田は本書において、一連の事件に対する解決は佐伯自身の能力ではなくあくまでも「神」の裁きによるもの、という超越的な視点の導入を平気で行っている。本格ミステリにおいてはこれは反則行為とも言える。そうなのだけれど、実際の犯罪とは、衆人環視のもとで公然と行われたものでもない限り(それでも怪しい。集団催眠なり集団幻想なんてものも考慮しなければならないから。)、絶対的な解決などないと言うことは明らかである。いかなる解決も、近似解に過ぎないのだ。だからこそ、山田は敢えてそのことを示すべく、「神」を召還する。「神」の裁きは本書において「絶対」である。但し、これを「ヨーロッパかぶれ」ないし「西欧至上主義」などととってはならない。本書はあくまでもフィクション、もっと言えばメタ・フィクションなのであり、ここにおいて「神」は称揚されるべきものとしてではなく、日本社会の「中空構造」を浮かび上がらせ、解体すべく召還された単なる装置に過ぎないからである。(1999/12/21)