新書創刊ラッシュとも言える昨今の出版業界。余りにも点数が多過ぎるので以下では簡単な紹介とコメントのみ付すことにします(どこが?)。

佐藤良明著『J-POP進化論−「ヨサホイ節」から「Automatic」へ−』平凡社新書、1999.3

誠に画期的な書。基本的には故・小泉文夫の仕事の延長線上にあるのだけれど、小泉が意図してかどうかは今となっては分からないけれど、結果的に文化ナショナリズムを志向してしまっていたのに対して、佐藤はよりグローバルな視点を維持しつつ、近代化やコロニアリズムの問題にまで言及しながら近年のJ-POP成立までの「日本大衆音楽100年史」(「大衆音楽」という語はまずいかな。でも、他にいい言葉が浮かばない。)をメロディ・コード・リズムの丁寧な、殆どマニアックとも言えるような分析に基づいて記述する。結局のところ、それはE(uropean)・B(lack)・J(apanese)のせめぎ合いによって説明されるのだけれど、EとBの関係が米英と日本では全く逆であった、と述べる佐藤の慧眼に驚く。確かに、「今更日・欧比較なんて…。」、という意見もありそうだけれど、こと日本国内の近代音楽に関しては圧倒的にEと、Eを経由したBの影響を被ってきたわけだから、これはこれで正しいと思う。ただ、著者の言う「胸」「腹」「腰」という身体(佐藤的には「ボディ」)との関わりを、少なくとも演奏主体に関しては超越してしまったかに思われるコンピュータ・ミュージックの浸透についての言及があっても良かったかも知れない。要するに、テクノ。佐藤に習って、T(echno)とでもしたいところ。それこそ、「ハイパーリアル=v(p.215)な音楽形態であるコンピュータ・ミュージックが、ここ20年位の間の音楽的地図の描き換えに果たした役割は無視し得ないように思う。最早、演奏において、本書で佐藤が説明のために大量に提示したような楽譜もコードも要らない状況になりつつあるのだ。それが、本来の形かも知れないけれど。もう一つ付け加えると、特に英米におけるアイルランド出身のミュージシャンの活躍振りは目覚ましいものだし、そもそも佐藤が可成りの頁を割いているThe Beatlesからして、ケルト(Celt。佐藤的にはCとでもなるのだろうか。)とまでは言わずとも、スコットランド・アイルランドその他の「伝統」音楽の影響は計り知れないものだ。これに対して、日本の文脈では、沖縄県出身の歌手達の活躍振りはこれまた誠に目覚ましいものではあるのだけれど、彼等が行っているのが沖縄「伝統」音楽ではない、というズレもまた、誠に興味深いと思うのだけれど。安室奈美恵やSPEEDにまで言及したのだから、そこまで書いて欲しかったところ。まあ、無い物ねだりは良くないのかも知れないのも確かだろう。(あー、長い。)

宮田登著『冠婚葬祭』岩波新書、1999.9

生前刊行では最後の著作、ということになるのだろうか。その余りにも早過ぎる死を悼む。さて、本書において著者は、「霊魂観」をキータームとしながら、日本における人生儀礼の在り方についての民俗学的分析を行っている。各章は「老人の祝い」「誕生と育児」「成人と結婚」「葬送と供養」という順に並べられているが、それぞれの段階は霊魂の移動、変化の生じる時期に当たり、そこにおいて行われる各種儀礼は、霊魂の安定化、コントロールを目指すもの、という視点が仮説として示される。なお、「あとがき」では「人生の儀礼の基底にかかわる日本人の霊魂観の究明をも意図したのであるが、なかなかそのようには至らなかったことは残念であり、今後の課題に残しておきたい。」(p.197)と述べられている。我々は、その遺志を引き継がねばならない、と思う。(2000/02/21)

生駒孝彰著『インターネットの中の神々−21世紀の宗教空間−』平凡社新書、1999.10

アメリカ合州国の宗教事情とメディアの関わりをまとめた上で、近年の各宗教団体のインターネット利用を概括的かつ網羅的に記述している。学問的な書物ではなく、ジャーナリスティックな体裁をとっていて、考察らしきものは殆どないのだけれど、取り敢えず、時折参照するインデックス的なものとして傍らに置いておくのも良いと思う。195頁からの記述にある、「インターネットを活用すると、あらゆる宗教の考え方はもとより、政治や経済、医学などの情報がすぐに得られる。その結果、多方面から物ごとを考え、多様な社会問題に柔軟に対応できる新しい神学が必要だ、というのである。」という文脈で出てくる「超神学」という概念は、井上順孝氏の言う「ハイパー宗教」にも通底する。この辺りの議論が、今後大いに深められるべきだろうと、取り敢えず思う。(2000/02/24)

竹下節子著『カルトか宗教か』文春新書新書、1999.11

フランスにおける「カルト」問題及びそれに対する政策の在り方などを中心に、今日におけるカルト問題一般を論じている。と、ここまで打ち込んだだけで、本書の問題点が出来してしまっていることに気付く事になる。そう、本書では「カルト」とされ、フランスでは実のところ「セクト」と呼ばれているものは、今日、つまりは「地下鉄サリン事件」後の日本国内で「カルト」と呼ばれているものとは到底同一視し得ないものなのである。何しろ、社会・文化・歴史的文脈が両国では大きく異なっているのだから。両者は取り敢えずきっちりと分けて議論すべきもので、その上で似ている、ないし同じだ、というのなら分かるのだけれど、そういう慎重な姿勢は殆ど見られない。それはさておき、本書では確かにフランスの宗教ないしセクト事情については事細かに述べられているような気がするのだけれど、日本については可成り大ざっぱ。そもそも、どちらの、ないしはどこの国の何という宗教集団なり何なりの話なのかよく分からない記述が頻出する。印象でものを語る程危険なことはないのであって、特に、こういう微妙な問題に関してはそのことが妥当するように思う。勿論、問題が微妙でない場合(要するに、政治性を孕んでいない場合、とでもなるだろうか。)でもまずい。どうも竹下はフランスにおいてマジョリティであるカトリック教団は正しくて、「マイノリティで、反社会的な宗教グループ」(p.17)であるというセクトないしカルトはおしなべて全て間違っている、と考えているらしい。だからこそ、間違ったものはこの世から抹消すべきなのである、と恐らくそう考えるから「カルトの見分け方」などという、ラベリング行為を実践しているとしか思えない記述に多くの頁を費やしてしまうのだし、万が一知り合い(特に家族。日仏両国の家族構造の在り方ないし変化に関する社会学的な研究などが参照されると議論は極めて面白くなっただろう。しかし、この著者にはそういう視点は存在しない。)がセクトないしカルトに入った場合には脱退させなければならないのでその方法を事細かにお教えする、という地点にまで行きついてしまう。読んでいて、怖くなった。何しろ、私個人としては、反社会ではあっても暴力的ではない集団なり思想の存在を、カウンター・カルチャーとしてその意義を充分に認めているのだから。

阿満利麿著『人はなぜ宗教を必要とするのか』ちくま新書、1999.11

これも、読んでいて怖くなる本。「読者の方々に、法然や親鸞の仏教を宣伝したり、ましてや入信を勧めるつもりはありません。」(p.193)と書いてはいるものの、どう考えても浄土宗・浄土真宗礼賛で全頁が埋め尽くされているようにしか読めない。本書は結局のところ、「人には宗教が必要だ。」という著者の意見を、やんわりと、「です・ます」調で語っているに過ぎないように思われる。なお、新宗教を「創唱宗教」とみなしたり、「自然宗教」なるよく分からないものを、それには祖先祭祀や年中行事といったものが含まれると述べつつ、それは「自然発生的」なものだ、としているけれど(p.8辺り)、「自然発生的」な宗教なんてものはそもそも存在するのだろうか?(反対に、イエスや仏陀が明確な意志を持って「キリスト教」や「仏教」を創り出したかどうかについてはもっと怪しいのだけれど。)単に何時何処で始まったのかがはっきりしないからといって「自然発生的」である、などと述べるのは、思考停止に他ならないだろう。要は、人が生きていくには思考停止が必要だ、というメタ・メッセージなのだろうか?やっぱり怖い。(2000/02/25)

菊池聡著『超常現象の心理学−人はなぜオカルトにひかれるのか−』平凡社新書、1999.12

認知心理学・神経心理学者の著者による「超常現象」ないし「オカルト」批判の書。批判とは言っても、著者はUFOだの霊視だの超能力だのといった超常現象自体の存在は認めた上で、それは「心理的錯覚」(p.11)なのであり、それ故に心理学の対象となり得る、という立場をとっている。寧ろ真の問題は、それによる実害が生じていることにある。ほぼ全面的に賛成。「ほぼ」を付けたのは、物凄い低料金(無料、という人さえいる。勿論、「物凄い低料金」という表現は私の主観に基づいている。まあ、数千円、と考えて頂きたい。)で依頼に応える「霊能者」その他を何人も知っているから。更には、実害どころか、彼等の存在が地域社会そのものの存立を支えていたりする場合すらある。結局、程度問題なんだろうか?もう一つ言うと、その手の現象の中には「錯覚」というよりは、「社会・文化的コンテクストによって形成された依頼者の世界観や霊魂観から必然的に出現する心理現象」、とでも言うべきものも存在しているように思う。「錯覚」という語にはどうしてもネガティヴなイメージが付きまとうけれど、ある現象についての説明原理が所謂「近代合理主義」に反するからといって、無碍に否定する事もないだろう。認識の在り方そのものが根本から異なっているのだ。そして、どのような認識の在り方が「正しい」のかなんていうことは、なかなか決定しにくい事柄なのである。繰り返すが、結局は程度問題なのかも知れない。それはおいといて、この著者はライターとしても有能である。中でも、「霊視者」との対決を描いた第4、5章は誠に面白かったし、「血液型性格判断」が人権問題に繋がる(血液型による就職差別が行われているらしい。確かに由々しき問題だ。)、ということを教えてくれた第6、7章も興味深く読んだ。といって、この本は私みたいなもの(「懐疑派」とでも言いましょうか。)が読んでもしょうがないもので、超常現象を通常現象と「錯覚」ないしは「認識」していらっしゃる方々こそが読むべきものだと思う。著者の執筆意図もそこに存在する。

井上順孝著『若者と現代宗教−失われた座標軸−』ちくま新書、1999.12

著者自身が中心となって行ってきた「若者の宗教意識調査」等の具体的な調査データに基づき、近年の「宗教」界に見られる変貌についての考察を行っている。井上氏のスタンスは徹底して社会学的であると思う。キーワードは「情報化」と「グローバル化」。これらが進む中で、「伝統宗教」はそれを支えてきた「座標軸」が失われることによって「風景化」する、と。そうして現れるのが「伝統宗教との断絶が顕著」で「無国籍的な雰囲気を漂わせた」、「ハイパー・トラディショナル」な「宗教」、略して「ハイパー宗教」(pp.160-1)ということになる。余りにも明解に語られた論旨に、何て分かりやすいんだ、と思わず膝を打つ。ところで、主として「伝統宗教」の調査・研究に従事してきた私だからこそ、確かに「伝統宗教」の「伝統」性については一定の留保が必要だと考えてはいるのだけれど、それらと若者達が担い手となっている近年の「宗教」文化とのギャップについては、感じるところが多いのである。これは何も私だけのことではなくて、東北日本における「伝統宗教」の担い手(その中には、研究者やジャーナリストによって「新宗教」と位置づけられる教団関係者もいる事も付け加えておく。)達が私との対話の中で示した、「オウム真理教」による一連の事件に対する反応にも顕著であった。つまり、「何が何だかさっぱり理解出来ない。」「あんなものは宗教ではない。」等々。「伝統宗教」がそれなりに身に付いており、近年の若者達の行動も若干理解出来る世代に属する私は、ひょっとしたら研究者として非常に幸運な立場にいるのではないかなどと、誠に詰まらない事を述べて、終わりにする。(2000/02/26)

飯島吉晴編『幸福祈願 民俗学の冒険1』ちくま新書、1999.4

以下、同シリーズに関する記述では、「コラム」に関するコメントはひかえた事をお断りしておく。
さて、『民俗学の冒険』シリーズ第1弾である本書は、余り良い出来とは言えない。まず、第1章川村邦光論文「オトメの願い−愛と性のオトメ文化−」はこの本の掲げているテーマからかけ離れている。「クィア・スタディーズ」を目論んだ論集に入っているべきものだろう。第3章中村彰論文「結婚願望と人生相談」も本書のテーマとは外れる。この論文は本書中最悪で、低俗かつ興味本位の下らない言説の羅列である。執筆者は猛省して欲しいし、編者はこんなものは捨てるべきだったと思う。でもそれは無理かも知れない。17頁で編者がこの章について述べていること(「情報化社会となり性的な解放が進んでいるとはいえ、過去の男性経験にこだわるなど性のあり方には問題点も多い。」等々。)は、編者がこの下らない文章を真面目に読んでしまった事を表明しているから。しかし、「「性的な解放」は更に進むべきだ」、と言っているとしか思えない言説を平気で提示出来るこの編者の勇気には感服、というか呆れてしまった。第4章近藤功行論文は内容そのものが無茶苦茶。「と学会」で問題にして欲しい位。缶入飲料に「0Kcal」とあるのはおかしい、茶葉は炭水化物なのだから燃やせば熱が出る筈だ、これは「健康幻想」ないし「信仰」ではないのか、などと声高に述べているけれど、筆者自身気付いている通り、メーカーは「人体に吸収される栄養分が殆どゼロだ」、と言っているに過ぎない。四捨五入したんでしょう。それだけの事。大事なのは、本当に0Kcalなのかどうかではなくて、飲んでいる人々がそれを基準にして購入しているかどうか、という事なのでしょう?そう表記するようになったことで売り上げがどう変化したのかについてメーカーに問い合わせたりしたのだろうか?また、茶葉は発酵度が高くなるにつれてカロリーないし熱量が低くなる、という根拠薄弱な事を述べているけれど、ちゃんと実験したんだろうか?結果が示されていないところを見るとやっていないのは恐らく間違いあるまい。緑茶、ウーロン茶、紅茶というこの文章で扱われている3種類の茶の、原料の茶葉と最終生産物の茶葉の質量当り熱量をきちんと提示すべきである。そもそも学生へのアンケートにしたところで、何故に「缶飲料の摂取状況」のデータしか示されておらず(p.157)、そもそも本書の主題である「0Kcal問題」と「アルミニウム缶とアルツハイマー病の関係性云々問題」についてのアンケートなんて考えたこともなかったのではないかという疑いを持ってしまう。そういうデータこそが重要だと思うのだけれどなあ。1997年のアンケートなのでしょうがないのかも知れないけれど、近年は缶飲料よりペット・ボトル飲料の方が主流になっている。これについても調べて欲しかったところ。「ディスタンクシオン」ですよ。まさに。なお、同章ではアルミニウムという金属について言及する際に、「アルミ」と表記しているけれど、これは一体何なんだろう。巫山戯ているんだろうか?こういう文章では、俗語は使うべきではないと思う。ネット上なら構わないと思うけれど。おまけにもう一つ。アルツハイマー病とアルミニウムの関係は科学的に実証されていない、というけれど、可成り怪しいのは事実らしく、そのことはこの文章中でもしっかり述べられているのに、何でそれが「幻想」の一言で片付けられてしまうのだろう?近藤の方が遙かに「幻想」に浸っているように思うのだが…。すなわち、「誰もが健康幻想を抱いている」、という。救いは第2章石井研士論文「初詣と七五三」だけれど、この著者の『戦後の社会変動と神社神道』(大明堂、1998)を既に読んでしまっている者にとっては聊か新味に欠けた。第5章飯島吉晴論文「不安と現世利益」は本書のテーマに最も合致しており、論述もしっかりしているのだけれど、阿満利麿の『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書、1996)に依存しす過ぎの感を否めない。これ程までに引用されるべき重要な文献とは思われない。また、最後の方は殆ど人生論と化していて、「民俗<学>」的な記述を大きく逸脱しているように思う。このシリーズは「日本民俗学会」の50周年を記念するもので、学術書としての体裁をとろうとしているはずなのだから、「べき論」はやめる<べき>だろう。勿論、「民俗学」がどうある<べき>かについて議論することは、重要である。(2000/03/03)

松崎憲三編『人生の装飾法 民俗学の冒険2』ちくま新書、1999.6

第1弾とは打って変わって充実した内容である。それは、各論文がきちんと「人生の装飾法」というテーマに合致しつつ、更にそこから一歩踏み出す姿勢を見せているからだ。第1章吉成直樹論文「お色直しと生まれ変わり」は「白」という色を中心として、人生の各段階で現れる「死と再生」というモティーフについて考察する。宮田登がかつて行っていた分析と余り変わりはないけれど、事例も豊富に示されているし、コンパクトかつ適切な記述となっている。第2章山田慎也論文「葬儀と祭壇」は誠に面白かった。そもそも、「葬儀」や「祭壇」を「人生の装飾法」と見なす、という視点そのものが重要である。山田はこの章で明治期から今日に至る迄の、主として東京都下での葬儀における「輿」の使用から「祭壇」の使用へという変化をトレースし、更には「祭壇」の意匠的変化にも論究しつつ、そこに見られるのは「死」を「旅立ち」と見なすことから「他界への再生」と見なすということへの変化であると結論する。見事な分析である。第3章中村ひろ子・岩本通弥論文「消えたアクセサリー」は日本における身体装飾の変遷をトレースし、「直接身体につける」装身具が7世紀後半に姿を消したこと、しかしながら「髪飾り」のようなものは存続し、入墨やお歯黒といったものも存続、ないしは新たに創出されたことを述べ、最後に近代に入って入墨やお歯黒といった身体変工の排除が始まり、西欧的服飾及び身体装飾文化全盛を迎えた、という。そして、結論部では鷲田清一の論述を引き合いにして、「身体装飾」の「意味」の変化について言及されるのだが(pp.109-10)、長くなるので省く。第4章矢野敬一論文「民踊と女性−身体化される「民主主義」−」では新潟県における昭和30年代を発端とする「民踊」の流行に関して、それが「民主主義」を身体的表現として表象しつつ血肉化させていったプロセスを追う。そして、確かにそれは「女性がより開かれた社会的関係性」を「獲得」する(p.139)という意味での「民主主義」の浸透、ないし「日常の労働」からの「解放」(p.142)には役立ったかも知れないとはいいながら、そこには「女性らしさ」の強調というネガティヴな側面もあったと述べる。鋭い。本章は本書中最も刺激的な論考であった。第5章松崎憲三論文「街の飾りと季節感」では東京の銀座を主な事例として、景観構成物としての「街の装飾」を事細かに分析し、それが人々の季節感形成、ないじ時間把握等にも影響を与えている事を述べる。一つだけちょっかいを入れると、167頁で看板を「屋根看板」「下げ看板」「置看板」の三つに分類しているけれど、現在最も重要なのは「捨て看板」なのではないか、と思う。広告主ないし設置者の暗黙の主張としては「捨て」てあるんだから「置き」でも「下げ」でもない。敢えて「設置場所」で言えば「下げ看板」と「置き看板」の中巻位に位置する「捨て看板」は、街の景観上可成り重要なのではないかと思う。ちなみに、「移動看板」なんていうのもあります。移動手段は人間だったり、自動車だったり、電車だったり、飛行機だったりと本当に多様多彩ですね。第6章篠原通論文「人生を彩る−広告コピーに見る日本人の生涯設計−」では1992-3年当時の新聞広告、京成線・山手線内の吊り広告に関して、タイトル通りのことが行われている。情報ないし言語化されたイメージによる装飾、というのも確かに重要なテーマであって、誠に細かい所まで手の届いている書籍だと再認識する。ただ、本論文の中身に関しては、「メーカー」の広告が最も多い、としながら、何故に「旅」「レジャー」「結婚式場」「マイホーム」にしか言及しなかったのかが良く分からなかった。「メーカー」の広告には「人生を彩る」、という要素がないとでも言うのだろうか?そんな筈はないだろう。ここには論述に都合の良いものだけを取り上げようという恣意的な選択が働いているように思うのだが、いかがだろう。そもそも、こういうサーヴェイは広告代理店自体が充分に行っている事なのでは、という気もするのだが。民俗学はその上を行かなければならないと思う。大変な作業ではあるけれど。 (2000/03/03)

常光徹編『妖怪変化 民俗学の冒険3』ちくま新書、1999.8

第3弾。タイトルは「妖怪と変化」にした方が良かったのではないかと思う。前半では妖怪や怪異現象を扱っているものの、後半では第2弾『人生の装飾法』の続編と考えても良いような人生の各段階での一連の「変化(「へんげ」ではなく「へんか」)」が扱われているからである。以下、ざっと見ていくことにする。第1章常光徹論文「股のぞきと狐の窓−妖怪の正体を見る方法−」はタイトル通りの内容。余り気にしていなかった俗信なので印象に残った。これだけ博覧強記的に事例を列挙されると、成る程、と頷かずにはいられない。結論としては、「股のぞき」なり「狐の窓」なりといったものが、「異界というもう一つの世界を思考のうちに対置させ、それとの関係で見失いがちな状況に意味をあたえ、対処しようとする営み」(p.52)である、と言うことになる。良く分りました。第2章赤嶺政信論文「妖怪と怪獣」は、主として「怪獣」とは何か、という視点で纏められており、『山海経』から『ゴジラ』に至る、これまた博覧強記な記述が展開される。「怪獣」という語の示す意味内容の変化が手に採るように分かる、誠に為になる論考である。第3章宮田登論文「現代都市の怪異−恐怖の増殖−」は鈴木光司の小説『リング』を民俗学の手法をもって解釈する。ここでは『リング』における「ウィルス」とはまさしく民俗学が「ケガレ」と呼んできたものを表象するのではないか、という視点が提示される。了解です。第4章川森博司論文「町が化ける−まちづくりのなかの民俗文化−」では、遠野市を事例として、遠野の人々自身による、『遠野物語』に代表される「民俗誌」と現実のギャップを埋める作業、及び民俗文化の再構築作業の在り方が描かれる。事例自体は大変興味深いのだけれど、152頁以下の「近代化」批判、「伝統文化」礼賛とも読めてしまう記述はちょっと頂けない。民俗学も含めて、学問などというものは何にも役に立たない方が結局の所世のため人のためになるのではないかと最近はつくづく思う。私自身は、学術論文においては何の主張もない、極力政治性を避けた記述に徹したいと思う。それは極めて困難なことではあるのだけれど。第5章植野弘子論文「名前と変化」では「悪魔ちゃん」問題を皮切りに、名前ないし命名法を巡る民俗、更には名前と国家との関わり、「夫婦別姓」問題に迄言及する。「民法第750条」に書かれている事柄を正確に把握している学生がどの位いるのか、早速アンケートを取りたくなってしまった。第6章岩田重則論文「人の一生」はこれ迄民俗学が対象から外してきたという次三男や女性の存在に光を当てようとする。結局の所、「民俗は、排除の論理の上に成立していたのであ」(p.214)り、それを対象としてきた「民俗学」もまた、その論理に引っ張られてしまい、「ムラで生まれた人間がすべて一人前のムラ人としての一生をおくったかのように描いて」(同)来てしまったのだ、ということになる。ただ、「民俗学」においては「人の一生において男性と女性との間に、あるいは成人において若者と娘との間に、性差を認めて来なかった。」(p.203)云々、というのは解せない。瀬川清子の『若者と娘をめぐる民俗』(未來社、1972)等に言及している事と矛盾していないだろうか?「性差を認めない」というのがどういう意味なのか、もう少し詳しい説明が欲しい所である。

岩本通弥編『覚悟と生き方 民俗学の冒険4』ちくま新書、1999.10

第4弾。これで終巻という事になる。タイトルを見ただけで、「生き方」などというものをテーマにしてしまうと、それこそ殆ど全ての民俗事象に関わることになってしまい、収集がつかなくなるのではないか、と思うのだけれど、予想通り、各論文の扱うテーマに一貫性が感じられず、散漫な印象を否めない。但し、各論文の完成度は高く、啓発された。第1章中牧弘允論文「会社の掟−現代サラリーマン事情−」は中牧氏の提唱する「経営人類学」を分析手段として、「サラリーマン川柳」を題材に、所謂「会社人間」は今日では既にその歴史的使命を終えたのではないか、と論じている。それは分かるのだけれど、25頁の「現代の「常民」がもっぱらサラリーマンとなって久しいことは、誰の目にもあきらかである。」というのは余りにもまずい。何かと批判の多い柳田國男の提唱した「常民」概念にも、女性はきちんと入っていたのだが。筆が滑ったのだろうか?第2章山田巌子論文「うわさ話と共同体」では、「うわさ話」や「世間話」が、「世間」ないしは「共同体」の形成に重要な役割を果たしている、と論じる。すなわち、「「世間話」とは、この伸縮自在の「世間」にあって、「他人」と「自己」を位置付けるのに大きな役割を果たす話であると仮定することにしたい。」(p.68)というのはややトートロジックな点を除けば蓋し至言である。付け加えると、そもそもこうした議論はひょっとするとトートロジックにならざるを得ないかも知れない。言語社会学や知識社会学のアポリアである。第3章八木透論文「結婚と相手」は伊豆八丈島、播磨家島、韓国における婚姻形態の事例を引き合いに出しながら、「親が決めた相手と」の結婚が必ずしも「常識」的なものではなく、「民俗社会」では寧ろ「恋愛結婚」の方が一般的であった、と説く。「アシイレ婚」や「妻問い婚」その他を「恋愛結婚」であるとまで言い切ってしまって良いのかどうかが疑問である。そもそも、ここで言う「恋愛」というのは何なのだろうか?この章に見られるような「ヨバイ」のような慣行を、恐らくこうした事を述べる方々が理想と考えているのだろう「近代的な恋愛」と同一視するような言説を認めるには、躊躇を覚える。女性が男性のもとを訪れるような形式が存在していなかった、という非対称性を無視しているからだ。第4章安井眞奈美論文「現代女性とライフスタイルの選択−主婦とワーキングウーマン−」は、タイトル通りの内容。現状把握から始め、遡及的に民俗学的な研究が明らかにしてきた女性のライフサイクルに関する記述を行った後に、「近代主婦」の誕生、更には今日における更に多様化した「現代主婦」の誕生に迄言及する。途中から「女性民俗学」批判と化していて、これは別の所で行うか、或いはこちらに議論を絞るかどちらかにすべきではなかったか、とも思うのだけれど、実はこの部分が本書中最も面白かった。自己を相対化出来ない、単なる自己の体験談を紡ぎ続けるだけの「「他者」不在の女性民俗学」(p.159)の存在が極めて「奇妙」だ、というのは頷ける。ただ、自称「女性民俗学者」達が執筆してきたそうしたテクスト群は、それはそれで分析対象として面白いと思うのだけれど。それは措くとして、「日本民俗学会」批判である本論文の掲載に踏み切った日本民俗学会の未来は明るい、と述べておきたい。第5章岩本通弥論文「「死に場所」と覚悟」はこのシリーズ中最も晦渋でありかつ最も野心的な論考である。著者は、所謂「自殺の名所」の存在が日本特有である事を述べた上で、何故それらが風光明媚な場所であるのか、と問い、その原因を独特の死生観及び霊魂観の在り方に求める。それは一言で言えば、日本では霊魂は死んだ場所にとどまると考えられている、という事になる。尚、ここで行われているのは、昨今の一連の飛行機事故における遺族その他の対応の日韓比較を中心とした、東アジアの風水思想・魂魄思想・親族に関する研究を援用した議論であり、「民俗学」は「一国民俗学」から「世界民俗学」に向かうべき、とした柳田のヴィジョン(周知の通り『民間伝承論』中で述べている。)がここにおいてその偉大なる一歩を踏み出している事になるのかも知れない、ということを述べて、長きにわたる書評を終える。(2000/03/04。PS2の発売日ですな。03/06に若干加筆。)