四方田犬彦著 『ソウルの風景 −記憶と変貌−』岩波新書、2001.09
ソウルに向かう飛行機内と車中で読んだのだけれど、その後実際にソウル入りしてしまったため、完全に中身が頭から吹っ飛んでしまった次第(-_-;)。まあ、それは冗談として、朴正熙政権下にあった20数年前の大韓民国と、金大中政権下にある今日の大韓民国を、その両時期における実際の滞在経験を踏まえつつ、政治・経済・文化等様々な面から比較検討を加えた好著である。特に、四方田氏の専門である「映画」に関する記述は、やや薄口な印象が否めないとは言え(本書が映画論ではないから仕方がない、とも言える。)大変印象深いものであった。以上。(2001/10/02)
青木保著 『異文化理解』岩波新書、2001.07
帯に付された言葉は、「グローバリゼーションをどう生きるか」。全く、これは21世紀の初頭という時代状況において、極めて重要な問いであると、改めて思う。それはともかく、本書の内容は、青木保氏がこれまで行なってきた一連の研究活動を総括するような形をとり、「異文化理解」とはいかなることなのかについて、あくまでも具体的な例を引き合いに出しながら、平易に語る、というものになっている。今日の世界情勢がこうなってしまったのも、私見では要するに「異文化不理解」に端を発するとも言えるわけで、人類の全てが、本書に書かれているようなことを思考・実践出来る状況がこの地球(=グローブ)に生まれる日を、待ち望む次第なのだけれど、現実にはそれは極めて厳しい事柄なのだろうな、と再び改めて考えたのであった(2001/10/05)
川村湊著『ソウル都市物語 歴史・文学・風景』平凡社新書、2000.04
文芸評論家・川村湊による、現「ソウル特別市」について書かれた研究書・紀行文・文学作品・歌等々を題材に、「ソウル」という都市の姿を浮き彫りにしようという重厚な書物である。テクストの多様さに対応して、その内容もまた誠に多岐にわたる。韓国文化に興味のある者には大変示唆的な好著と言えるであろう。問題は、扱われているテクストの多くが日本語で書かれたものであるという点で(李箱、梶山季之、長璋吉、中上健次、李良枝等々が主な書き手として登場する。)、朝鮮ないしは韓国人による(別に何人でも良いのだが…。ちなみに、日本人によるハングル表記の文学作品は、今のところ皆無と言ってよいのだろうけれど、これは大変重要な事柄だ。)、ハングル表記のテクストがあまり渉猟されていないのはどういうことなのか、それは端的に言って片手落ちではないのかと思った次第。ついでなのだが、地名・人名等の固有名詞には全て振り仮名を付けて頂きたかった。これについては、特に前半部がひどくて、後半部ではこの点はやや改善されている。この事態について私なりに考えてみるに、前半部は主として、日本の植民地支配下にあった時代についての記述なのだからこれで良い、ということなのだろうか?もしそうだとしたら、一言断るべきでしょう。以上。(2001/11/29)
伊東順子著『病としての韓国ナショナリズム』洋泉社新書、2001.10
どう考えても「保守系」のジャーナリスト・伊東順子が、11年間の韓国滞在を元にして「韓国ナショナリズム」の実態・その意味するところ明らかにしようとする、学術性は限りなく薄いあくまでも一般読者向けの書物である。ふむふむ、しかしながら、大変面白い。「朝鮮ナショナリズム」ならぬ「韓国ナショナリズム」が、日本のみならず、アメリカ合州国、中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国その他といった「他者」との独特な関係によって、醸成されてきたこと、そして、それを韓国人のみならず、主として日本以外の他国・他民族からの留学生や移入労働者の視点から描いているところが新鮮である。ただし、本書の記述は単なる特殊事例の主観的な描写や、それについての浅い論評レヴェルの言説にとどまっていて、上に書いたような特殊な他者関係によって独特の「ナショナリズム」が産まれた背景なりプロセス、更にはその近年における変化に関して、きちんと筋道を立てて考察すれば学術書レヴェルに昇格するのだろうけれど、その辺りが、編集上の都合からなのか、あるいはこの著者の能力不足のためなのかは不明だけれど、全くなされていないのが大変もったいないところ。また、何で「韓国ナショナリズム」をして「病」と言い切れるのかが結局良く分からないのが不満なのだが、それはさておいて、取り敢えずのお勧め本です。(2001/12/01)