藤原伊織著『蚊トンボ白鬚の冒険』講談社、2002.04
『週刊現代』に2000年夏から2001年秋にかけて連載された小説の単行本化。そういう時期に書かれた関係で、本書が描く三日間の物語は「西暦2000年の夏」の出来事という時間設定を背景に持つことになる。
さて、タイトルにある「蚊トンボ白鬚」とは、本書の実質的な主人公である20歳の配管工・倉沢達夫が隅田川にかかる白鬚橋辺りを走っている時に彼に「憑依」した(という風に解釈しました。)文字通り「蚊トンボ」のこと。日本語を解し、達夫の筋力を一時的に高めるという特殊な能力を持つこのシラヒゲと自称する蚊トンボのおかげで、達夫の日常生活は一変。アパートの隣人にして株式のデイトレーダである「黒木」と彼を追う暴力団その他、あるいはその暴力団と深く関わる天才プログラマにして最凶の殺人鬼でもある「カイバラ」らが織りなす経済戦争・報復合戦等々に巻き込まれる羽目に。結末は書かないでおくけれど、兎に角圧倒的な筆力で最後まで一気に読ませる、経済小説のテイストを加味した著者お得意の傑作ハード・ボイルド小説となっている、と述べておこう。
なお、この作品が、これまでの藤原作品に比べ、「軽くて明るい」な、という印象を受けるのは間違いのないところ。まず、主人公が若くて、基本的に楽天家である。更には、彼に憑依する蚊トンボの性格もまた、主人公と似て明るいもので、その台詞は洒脱なものでさえある。まあ、とは言っても、やはりこれは藤原作品なので、主人公はそもそも心臓疾患を患っていて、これが作品全体に影を落としているし、ラストは実にホロ苦いものである。私はそうではなかったのだが、号泣する人もいるのではなかろうか。
ところで、ハード・ボイルド小説というのは、登場人物の造形にこそ最も注意を払うべきものであり、読者もその辺りがうまくいっているかによって作品の出来映えを判断してしまうのではないかとさえ思うのだけれど、この作品における主人公・達夫といい、その年上の恋人・真紀といい、デイトレーダの黒木や彼を追う暴力団員・瀬川といい、更にはカイバラといい、実にうまく造形され、書き分けられていると思う。その周辺にいるサブ・キャラクタも良く書けている。さすがである。
最後になるけれど、本作品は経済小説としての意味合いが強いものなのだが、全ての事件の背後にある自動車業界とその周辺、またIT関連株式市場の動き等々に関し、相当詳しく書き込まれていてその努力が忍ばれるのだが、何しろ3年前のことだから既に「情報としての価値がなくなっている」、という辺りが、面白いところかも知れない。そうそう、黒木が本書の中でいみじくも言っているように、常識となった情報には価値がないのである。まあ、だからと言って、それこの作品に価値がないということを意味するのでは全くないことを、述べておかなければならない。そうそう、これも黒木が言っているのだが、常識となった情報も加工すれば価値を産み出す可能性がある。うむ、なんて含蓄のある小説なんだろう。
以下、毎度おなじみの「突っ込み用」蛇足。終わりの方でカイバラが作ったアプリケーション・ソフトをモバイルPCと携帯電話を介して送受信する場面があるのだが、第3世代携帯電話がまだ市販されていなかった2000年夏の時点だと、転送速度は最高でも64Kbpsであったはず(cdmaOneが最速だったかな?普通の携帯電話なんか、9,600bpsだったぞ。)。これだと、送受信にはべらぼうな時間がかかるので、本書の記述通りのことは行なえないように思う。衛星を使っているのかも知れないが、と思って調べたのだが、衛星携帯電話のデータ転送は基本的に遅い。物凄く高いですけど…。以上。(ちなみに、例の衛星携帯電話事業IRIDIUMの破綻って、2000年3月なのですな。一応現在はあの人工衛星群、再稼働し始めているようですが、2,400bpsじゃ使えないよー…。更に蛇足。このサイトは面白いから一度観てみて下さい。)(2003/06/30)