笠井潔著『熾天使の夏』講談社、1997.7
「あとがき」によれば本書は笠井の「最初の小説作品と見ることも可能」らしい。というのは、本書の原稿自体は実質上のデビュウ作『バイバイ、エンジェル』(角川書店、1979。私はどういう訳かこの本の初版・著者サイン本を持っている。)以前に完成していたものだそうで、とある事情から刊行の機会を逃してしまった結果、20年近くお蔵入りだった、ということらしい。冒頭から久々に見るセンテンスの長い文章が続く。「純文学してるなー」などと思いながら一気に読んでしまったけれど、本書はまさしく「純文学」なのであって、一応矢吹駆シリーズの一角として捉えて良いのにも関わらず、さらにまた本書がその一冊として含まれることになった「講談社メフィスト・クラブ」が多分ミステリー作品を主として扱っていくという前提を持っているのだろうことを考えると、そういう積もりで本書を購読した読者一般は意表をつかれる格好になったのではないかと邪推する。扱われているのは、1970年代の左翼ゲリラによる「企業連続爆破事件」であり、「連合赤軍」等が行っていた一連の「内ゲバ」、「リンチ事件」である。ここにおいて既に、その後20年間の執筆活動における基本モチーフである、「革命と死」についての言及が幾度となく繰り返される。115ページ付近で矢吹駆が語る「意識が生命から解放される時、最終的に完成される」という「存在の革命」のヴィジョンがヘーゲルの言う「絶対精神」のヴィジョンとどう違う(矢吹駆曰く、「全然違う」らしい。)のかがよく分からないのだが、最後まで読み通すと、ここで言わんとするのは結局のところ、観念的・象徴的な「死」を経て本源的・本質的な「生」を取り戻す、という、ヘーゲルの否定的な継承者であるG.バタイユの示したヴィジョンに近いのかな、などと思う。なお、エンディングはJ.P.サルトルだのA.カミュだのの実存主義小説を彷彿とさせるものであったことも述べておきたい。勿論「あとがき」にもある通り、現時点での著者は本書の主人公の「完全な自殺」を巡る「観念」には「批判的」なのであり、それでもなお、改稿することなく刊行に至ったのには、笠井なりの判断があってのことらしい。私個人としては、本書は1960年代から70年代に至るまで社会にみなぎっていた闘争の雰囲気をリアルに伝えるものとして貴重なもののように思われた。当事者の目で、当時に書かれたものには、それはそれとしての意義がある、ということである。そうすると本書は資料的な意味しかないように思われてしまいそうだけれど、それは読者の読み方次第なのであろうということも述べておきたいと思う。さらに、どうでも良いことを付け加えると、本書のデザインは京極夏彦withFiscoが行っている。(1998/07/30)