笙野頼子著『タイムスリップ・コンビナート』文春文庫、1998.2(1994)
芥川賞受賞の表題作を含む3作品からなる中短編集の文庫化である。この人の持ち味である、言語だの何だのによって構成され、個人を拘束している自明なものとされてしまっている日常を、あくまでも言語によって解体していくようなスタイルが踏襲されている。こういうのは、読むのも大変だし、もちろん書くのはもっと大変なのだ。この頃までのべらぼうな「寡作」にそのことが良く現れていたように思う。なお、付録にはラリイ・マキャフリイその他との対話が収められているのだが、これには驚いてしまった。マキャフリイ夫人のシンダ・グレゴリーは司会役の巽孝之曰く、「「タイムスリップ・コンビナート」を読んだとき、『ブレードランナー』を連想されたそうですね。」(p.167)ということらしいのだが、同作品には、「ブレードランナー」という語も、「レプリカント」という語もちゃんと用いられているのである。英訳では別の語が与えられていたのかも知れないけれど、いずれにせよ恐るべきことである。目を疑った私は、「ひょっとして私がこれを読んだという記憶は捏造されたもの?」だの、「同一テクストでも、複数の人間による読書行為においては各々の読むテクストに別の語が紛れ込み得るのか?」などと訳の分からぬことを考えてしまった。
同著『太陽の巫女』文芸春秋、1997.12
明らかに笙野の郷里・伊勢市をモデルとした「凪刀之宮市(ナギトノミヤシ)」を舞台とする「神」との婚姻をモチーフとする「太陽の巫女」及び、死に行く母の看取りを描いた「竜女の葬送」という二つの作品からなる連作中編集。あくまでも私小説の体裁をとりながら、「神話」を紡ぎ出そうという意図が感じられる。ここでは主人公が属する「滝波家」と、その祖母の出た一族である「巽家」の間で行われてきたといういわゆる「限定交換」だの、それと「構造」的にリンクするような「神話」が表現されているのだけれど、どうも説明っぽい文章が並んでいて、ちょっとげんなりしてしまった。これじゃまるでC.レヴィ=ストロースの『親族の基礎構造』そのものなのである(さらには『今日のトーテミズム』もかなり入っている。)。それこそ「不可視」な日常の奥に潜む「構造」みたいなものを解体していこう、というこの著者が常に持ち続けてきたと思うポスト構造主義的なスタイルは払拭されてしまっていて、本書ではむしろ、その記述の在り方が、私から見れば元来それほど堅固な「構造」を持つとは思われない「現実」を「構造」化する方に傾くことにより、「構造」を強化してしまっているように感じられた。
同著『東京妖怪浮遊』岩波書店、1998.5
3冊目に入る。以上を続けて読まれるならば、この著者の作品が年を追う毎につまらなくなっていると思うのは私だけではないだろう。執筆ペースが上がったせいもあるのだろうけれど、ここで描かれている「売れ始めた作家」の身辺雑記的な記述は、いささか退屈であった。なお、主人公たる「単身妖怪・ヨソメ」というのがその作家を指すのだけれど、『太陽の巫女』においても、主人公は「神」と「単身婚」を行うことになっていて、著者の「単身であること」へのこだわりが、妙に気になってしまった。後は取り立てて述べることはない。(1998/06/28)