太田好信著『トランスポジションの思想−文化人類学の再想像−』世界思潮社、1998.5
本書に関しては、第5章で批判の対象とされた山下晋司が『民族學研究』(63-1、1998)の中でかなり辛辣な書評を書いているので、そちらをお読みになって頂ければ充分だと思う。と断った上で敢えて個人的な意見を以下簡単に述べさせてもらうと、本書の「理論的」背景にはE.SaidとJ.Cliffordの二人の仕事が横たわっていて、本書を通して読みとれた太田の議論の整理を私なりに再解釈するなら、両者は「文化」を語る、あるいは「文化」を研究するということにまつわる認識論的なレヴェルの問題(要するに「異文化理解」における「解釈」や「記述」、あるいは「テクスチャリティ」を巡る問題)と、政治的なレヴェルの問題(これが、太田の言う「ポジション」、つまりは「誰が、何を、どこで、何のために、どのように語るか」という問題になるのだろう。)の双方に敏感であるのに対し、その他の「ポストモダン人類学者」(G.Marcus&M.Fischerなど)と呼ばれる人々は、今日の問題を認識論的なレヴェルに還元してしまっている、ということになるだろうか。それはそうなのかも知れないが、例えば私が研究している「東北日本の巫俗」のような研究対象について考えてみるならば、そうした「文化事象」や更にはそうしたものについて「研究すること自体」が、いかなる政治的なポジションを持っているのかなどと問うてみることは余り生産的ではないし、それよりもまずは、集められる資料をきちんと収集してまとめておくことの方がより意義があるのではないかと素朴に思う。まさか、そんな研究には意味はない、とは言えないだろう。メタ・人類学的な問いが余り意味を持たない領域もある、ということを言いたいのである。それはおくとして、太田が第5章において「日本の人類学」におけるJ.Clifford受容の問題点として、関本照夫、今福龍太、大塚和夫、栗本英世、中川敏、杉島敬志、山下晋司、吉田憲司、W.RubinらのJ.Clifford理解が認識論的なレヴェルにとどまっていて、J.Cliffordが政治的なレヴェルの問題を早くから考慮していたことを無視しているか、あるいは気付いていない、と述べているのだが、物事を認識論的レヴェルと政治的レヴェルに単純に還元してしまっていること自体も問題なのだがそれはさておき、こうしたことを考えているのは別にJ.Cliffordだけではないことは誰でも知っていることなのであって、それならばそうしたことに敏感な研究者である例えば本書でも取り挙げられているG.Spivakや、あるいは太田自身も大いに称揚するE.Saidや、さらにはM.Foucaultが「日本の人類学」においてかなりの頻度で引用されている実態に目をつぶろうというのはちょっとずるいのではないかと思う。あとがきを見ても分かるのだけれど、太田が「日本の人類学」に感じている憤りはかなりのもので、それを晴らすべく、「日本の人類学」の現状をねじ曲げて示すという魂胆が見え見えで、山下も述べている通り、こうしたこと自体が、「知の位階秩序」の再生産になっていることを太田は自覚しなければならないだろう。散々なことを書いてしまったが、結局本書でその具体的ヴィジョンが語られることがなかった「人類学の再想像」や「トランスポジション」の策定、あるいは「人類学の歴史化」(これについてはM.Sahlinsの『歴史の島々』のような仕事のことを言っているのか、あるいは小熊英二の『単一民族神話の起源』や赤坂憲雄の「柳田國男の発生」シリーズのような作業を指すのか、あるいはまた先述のポジショニングの必要性、即ち「誰が、何を、どこで、何のために、どのように語るか」(自問自答も含めて)を見極めながら研究活動に勤しむということを指すのか、果たして一体どれなのかがよく分からなかった。個人的にはどれも大事な作業だと思うし、こうしたことは皆さん意識していないとは思えないのだけれど…。)という宿題は、「日本の人類学」者の卵である私自身にも突きつけられたものとして、素直に受けとめたいと思う。私自身、具体的なイメージが浮かばないのも事実なのではあるけれども…。(1999/02/08)