笠井潔著『天啓の宴』双葉社、1996.11
連載は『小説推理』の1995年3月号から6月号まで。といえばお気付きの通りちょうど「阪神大震災」からオウム真理教による一連の事件がメディアをにぎあわしていた時期に当たる。本作品では最後の部分でそれらの「現実」に起きた事件に触れていて、私個人としては、この辺りの記述を、そこまでの間に記述され読まれてきた「作品世界」と「現実」を結び付け、両者を複雑に交錯させつつ、読み手に混乱とそれこそ「天啓」を与えるような起爆剤的な作用を果たしているものとして読んだ。さて、本書のテーマは「大文字の作者の消去」である。なんでそんなことに拘るのかが今一つ分からないのだけれど、要は、もはや単独の「作者」による「作品」の創造が不可能であり、「作品」とは基本的に複数の人間によるコラボレーションでしかあり得ないことが分かっているのにも関わらず、「作品」が書かれ、「作者名」を付されて出版され、流通することによって、そうした事実が隠蔽されてしまっていることに対する憤懣みたいなものが笠井氏の中にずっとあって、それが、あくまでもこの作品の中の出来事に過ぎないにしても、「作者」がいない、あるいは特定出来ない「作品」を創造しよう、あるいはその存在可能性を示そう、という動機になったのだと解釈する。しかし、どうなんだろう。表紙にもはっきりと「笠井潔」の名前の入った書物を手に取ってみるに付け、本書がその手によることがはっきりと明示されていることを確認しつつ、「言っていることとやっていること」のギャップを感じてしまうのであった。なお、「大文字の作者の消去」というモチーフは竹本健治の『ウロボロスの基礎論』の基本モチーフにもなっているのだけれど、本書(『天啓の宴』)を読む限り、同書のエピソードの一つである笠井による竹本の前著『ウロボロスの偽書』における「大文字の作者の不完全な消去」の指摘というのは、どうやら『天啓の宴』の構想を練りつつあった笠井が実際に行ったものなのだな、と納得させられてしまった。『基礎論』ではその他に綾辻行人や山口雅也「本人」(絶対にそうだとは言い切れないのだけれど。)による「原稿ジャック」なども行われていて、必ずしも「大文字の作者」として竹本健治が君臨していない、すなわち、はっきりと別の人物が記述した部分が存在する、という意味で、より明確な形で「大文字の作者の消去」に近いことが行われたのではないか、とあらためて思い直した次第である。ちなみに、笠井はこれまでいわゆるメタ・フィクショナルな作品をほとんど書いてこなかったと思うのだけれど(皆無?)、ここへ来てここまで徹底的にそういう方向性を打ち出したのには何か訳があるのかも知れない。これをこれまでの基本的な作風であった観念小説的な作品様式に接続することによって、作品世界は格段に拡張されることになるだろう。今後の活躍が楽しみである。(1998/07/12)