中谷文美著『「女の仕事」のエスノグラフィ バリ島の布・儀礼・ジェンダー』世界思想社、2003.02
本書は、人類学者である著者が、バリ島のとある農村におけるフィールド・ワークを基にした民族誌的記述を行ないつつ、「仕事」とは何か、という問題を検討する、という内容。勿論、人類学はこういう問いを立てる場合本質論に走ることはないわけで、ここではジェンダーという分析概念を導入しつつ、バリ島において女性達がいかなる行為・行動を「仕事」と見なし実践しているか、と同時にまた「仕事」とは見なされない行為・行動はどういうものなのか、ということを記述しつつ、日本社会における「仕事」観とのズレを浮き彫りにすることが最大の目標であり、それが即ち本書が持つこれまた最大の意義ともなっている。
さて、実のところ、何が「仕事」なのであるか、ということは当事者および観察者の主観に根ざすところが多々あるのであり、それに何らかの確固たる定義を与えることはほとんど意味がないないしは不可能なことなのであるとさえ思う(余談:物理学では、「力かける距離」という形で一応客観的に把握可能。ただしより正確には、ベクトルだの積分だのとった概念を使わないと記述出来ません。というより、そもそも話の次元が違う…。元へっ!)。たとえそれが、例えば法的に規定されているような場合でも、実際には実践者が持つ認識との間にはそれこそズレがあることは間違いのないことである。それは措くとして、恐らく可能な作業というのは、自らが長期間におよぶ観察によってその社会における通念としての「仕事」観を何とか把握し(それは確かにこれまた観察者の「主観」に過ぎないのかも知れないが、少なくとも<とぎすまされた主観>ではある。)、それが別の社会におけるものと「異なっている」ことを見出すことで、「仕事」というものに対して例えば日本に生きる人々が抱いている通念を解体する、ということくらいなのかも知れない。
「くらいなのかも」とは言いながら、実のところこれは極めて意味のあることで、例えばフェミニズムがここ数十年、「大文字の政治学」から「小文字の政治学」にその批判・批評の対象を移行させてきたのは何故かと言えば、要するに例えば性差別というものが、極めてミクロな一見性差別とは無関係に見えるような言説・行為等々の複雑な絡み合いの上に不可視ないし極めて見えにくいプロセス・ロジックによって構築されている、という認識に立ってのことであろうかと思う。個々の問題を精視・精査し、それと隣接する問題との絡み合いを明らかにし、以下同様、といった作業を続けることで、大文字の政治学にくさびを打ち込むことが出来れば、それは偉大なる一歩なのではないかと考える。
本書が描いて見せた、バリ島のある社会に住む人々、その中でも女性達にとってバリ女性の行なう「儀礼」の準備、大きな収入源である「機織り」、「育児・家事」のうち前二者が「仕事」であり最後のものは必ずしもそうではない、という「仕事」観と、著者および恐らく日本人ないしは日本女性が持っていると著者が考えている、それらはすべて「仕事」である、という「仕事」観のズレの発見、ここから言えることは「仕事」観ないしそれに深く関わるジェンダー観は決して普遍的なものではなく、各社会によって大きく異なるものだ、という主張は本書が民族誌的記述という具体的中身を伴うが故に極めて説得力がありかつまた大変意義深いものである。勿論、日本における「仕事」観もまた、著者自身による日本農村におけるフィールド・ワークに基づいた<とぎすまされた主観>として提示されなければならないものではあると思うのだが、それは今後の課題であり、もしそれがなされた場合どのような結論が出てくるのか、という点には強く興味を抱くのである。以上。(2003/05/06)