千歳栄著『山の形をした魂−山形宗教学ことはじめ−』青土社、1997.5
「山形宗教学」という言葉に惹かれて購入したが、山形県内の宗教文化に関する記述は269頁中はじめの64頁分と終わりの部分の中沢新一との対談に若干見られる程度。では他の部分は何なのかといえば、アニミズムや仏教その他一応宗教的な事柄に関する一般論、数寄屋建築や茶道に関するこれまた一般論、山形県と関わりのある職人・芸術家との対談、山形県とは多分何の関係もない文化人(?)との対談なのである。著者の千歳栄氏は山形市に生まれ、県内で建設会社を営む傍ら、宗教だの日本文化だのについて勉強してきたらしいのだが、何しろ話のスケールが大きすぎてお話にならない。全体を流れる主調低音は「近代西洋文明」なり「西洋思想」はもう限界に来ていて、これからは「自然と一体となって生きるという思想」である「東洋思想」(p.246)を見直して行かなきゃならん、という誠に凡庸かつお粗末な主義主張である。どうやらこの著者、梅原猛に心酔しているらしいのだけれど、その影響からか、日本には古来から「祖霊信仰」や「アニミズム」、あるいは「マナイズム(なお61頁の記述を見ると著者はこの語の意味が分かっていない。)」をペースとした、「自然の中に生きた自然主義の心」を持つ「縄文文化」が存在しており、そこに「技術重視の思想」である「弥生文化」が流れ込み、縄文文化を凌駕した結果生まれた「心のアンバランス」が「いま日本が抱える問題であり、そして世界が抱える問題ではないか」(p.117)とまで言い切ってしまう。ああ、話がデカ過ぎる。山形県を中心的な調査地としている私としては、山形県在住の方が語る、そこに生まれかつ生活をしてきた方々にしか分からない微細な部分を描き出すような著述を期待していたのだけれど。これなら、森敦、藤沢周平等の方が遙かに「山形宗教学」しているのではないかと思う。しかし、中沢氏は、こんな粗末な本に序文を書き、対談にも応じ、それ自体は調査研究の一環として行ったものであるとしてもそれを載っけることに何のためらいも感じなかったのかな、などと考えてしまった。青土社も青土社で、こんな粗末な本を出版すること自体が「トンデモ」ないことだけれど、あえて購買意欲をそそるべく中沢氏を登用したのだとすれば、ちょっとえげつない気がするし、もっと端的に言えば、これはほとんど詐欺に近いのではないかと思うのだけれど。猛省を促したいと思う。(1998/09/04)