桐野夏生著『柔らかな頬』講談社、1999.4

ご存じ直木賞受賞作。確かによく書けている。笠井潔の『三匹の猿』同様、「家族の崩壊」を描いているのだけれど、猟奇殺人事件に持っていかないところが物語にリアリティを与えている。私見では、本作品はある意味で、アンチ・ミステリーなのかも知れない。物語は、行方不明となった娘を捜す母親、その愛人、あるきっかけで前記母親を手伝う事になった末期ガンの元刑事の3人を軸に描かれる。真相は結局明らかにされない。記述されるのは、母親と元刑事の同事件についての主観的な解釈のみなのである。前記笠井潔はその初期の作品において、現象学を援用しつつ、ある事件の真相なんてのはその事件についてのより良い説明に過ぎない、というようなことを述べていたが、本作品では、笠井のいう「より良い」解釈が登場人物や読者にもそれなりに説得力を持つ「共同主観」的なものであるのに対して、個々人の解釈は他者に語られることはなく、ひたすら自家消費されるのみである。ただし、勿論読者には開かれてはいるのだけれど、読者は登場人物と相互交流が行えない立場なのだから、読者への語りは一方通行にとどまる。こうなってくると、後は読者が考えて、という事になるのだろうけれど、その辺が本作品がある意味アンチ・ミステリーと考えられる理由なのである。いやいや、そもそもミステリーではないのでは、という見方も出来るかも知れないが、文体やプロットは明らかにミステリーのもの。むしろ、ミステリーを偽装しつつ内破を試みた、と観た方がよいだろう。勿論、以上述べたことも、私の主観的な解釈に過ぎないかも知れない。読者間の相互行為が必要なのかも知れません。以上。(1999/10/28)