板橋作美著『俗信の論理』東京堂出版、1998.9
これは画期的な本ではないだろうか。著者はこれまでまともな検討がほとんどなされてこなかったという「俗信」群を、C.レヴィ=ストロースの神話分析がその原点にある文化記号論その他を用いて解読していく。一見無意味・不合理と思われがちな俗信が、その要素の統辞的・範列的な入れ替え可能性によってその存在根拠(市民権と言っていいかも知れない。)を得ている、というのは誠に画期的な見解であろう。本書で散々批判される井之口章次による俗信の機能主義的な解釈の不完全な点を暴き、それを構造主義的な解釈を施して乗り越えていく小気味よい分析手法には、今世紀後半の人類学の成果を見事に活かされていると思う。ただ、若干の瑕疵があるとすれば、一「俗信研究試論」が本書の半分強を占めていて、残りの章である二「兎唇と双子」、三「蛇と南瓜」、四「赤飯に汁」、五「火と小便」は確かにその具体例と言えないこともないのだけれど、実際には第一章にも存分に具体例が盛り込まれていて、わざわざ章を改める必然性を感じなかった。要するに、本書は第一章だけでほとんど完結してしまっていて、後は余談、という印象が強いのである。それならば、やや一般読者には分かりにくいのではないかと思われる、文化記号論や構造言語学、あるいは物語論や意味論についての、より懇切丁寧な解説が頭の方にまとめて置かれていれば一層読みやすく、多くの読者を得られたのではないかと思う。ところで、基本的には統辞的・範列的な入れ替え可能性によって出来上がる俗信の体系の潜在的な存在可能性のみでその言表の妥当性が保証される、ということで私自身は納得してしまうのだけれど、例えば106頁で、筆者は「朝坊主が凶」という俗信は理解しにくいのだが、これと「夕方の尼」を並べると朝坊主と凶の結び付きがはっきりする、と述べているのだが、そもそも何で夕方の尼は吉であることは理解しやすいのかがよく分からないし、それは措くとしても、同じことをもっと一般化して述べている「すりかえられた問題は、ふつう、元の問題より言おうとしている関係なり論理が明白である」(p.112)という言説には、結局問題を機能主義に還元してしまうのか、という印象を感じざるを得ないのである。どうせなら、最後まで徹底して、「意味とは、恣意的に創り出された言表間の関係性のみによって醸し出される。」という主張を貫いて欲しかったと思う。なお、C.レヴィ=ストロースの神話分析なり、文化記号論に対して行われてきた批判、つまりはここで論じられている「俗信の論理」について言えば、「それって、結局の所研究者の頭のなかにしかないんじゃないの?」というイチャモンに対しては、筆者もなかなか答えにくいのではないだろうか。そういう分析法を基本的に認めている私ですら、本書における俗信解釈のかなりの部分は頷けるにせよ、何ヶ所かでは「これは考え過ぎでは?」と感じる部分が存在した(特に、第二章以下の分析に顕著なように思う。)。著者自身が、こうした学術的な記述自体が俗信と同じ「トリック」を使っていることを自覚したうえ(p.112)での脱線かも知れないけれど、余りに恣意的な論理展開はまずいのでは、と思う次第であった。ついでに言うと、やはりその俗信が言われているその土地その土地の社会・文化的なコンテクストを捨象することには問題があるように思う。そこまで言わないにしても、ある土地で言われている俗信が、近辺ではこのように変化している、みたいな伝承・変化の時間的・空間的な分析もあってしかるべきではなかったろうか。また、日本全国から集めた資料を基にして分析が行われているのだけれど、地方誌・地方史によってはその土地では実際には言われていないことを載せているものまであって、それらの記述を信用し過ぎるのも危険である。ともあれ、こうした仕事は、今後の課題となるのであろう。少なくとも、本書が俗信研究の新境地を開いたことだけは間違いのないところなのである。(1999/02/17)