Sofia Coppola監督作品 Marie Antoinette
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前作『ロスト・イン・トランスレーション』が絶賛を浴びたソフィア・コッポラ(Sofia Coppola)監督の最新映画である。資本投下したのは、映画の舞台にもなっている18世紀後半においても協力関係にあったアメリカ・フランス、そして前作の舞台となっていた日本。これは、到底回収出来ないんじゃないか、と思う次第なのだが、それは措くとして、と。
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まあ、色々な人にさんざん言われていると思うわけなのだけれど、ここでは二つほどこの映画に対する率直な感想を述べる、というか問題点の指摘を行なうことにしよう。まず第1には、撮影に本物のヴェルサイユ宮殿を使うというこだわりを見せているにも関わらず、全編英語台詞はないだろう、ということ。まあ、この点については事前に知っていたので何とか我慢したのだが、第2には一体これでマリー・アントワネットの何を表現しようとしたのかが全く伝わってこない脚色には唖然としてしまった、ということ。他にも色々あるのだけれど長くなるし、上の二つだけでも十分だと考えるのだが、要するに、そもそもこれは映画として成立していない、ということである。
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脚色というか映画の内容についてちょっと細かく述べると、例えば前半のルイ・オーギュストとの結婚からその性的不能を確信するに至るという辺りの流れ、あるいは夫が性的不能なのにも関わらず、子作りを実家のハプスブルク家からも嫁いだ先のブルボン家の両方から期待されることによってジレンマに苦しむ、という辺りの話は現代日本の御皇室における一連の問題や先の柳沢厚労相発言などとも相俟ってそこそこ面白いのだが、これは明らかに引っ張りすぎ。これが中心テーマならこれだけで押すべきだし、後半部からしてどう考えてもそうではないのでこういう部分はサラッと流せば良かった、ということである。
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更に言えば、その後半部の出来は誠にひどいもので、宮廷内での奔放な振る舞いが批判される、という紋切り型のマリー・アントワネット像が提示されつつ、どうやら後半の目玉としてスウェーデン貴族との不倫に焦点があたりかけたかと思うと革命が起き、ここからが肝心のお話なのかと思い直すとあたふたと映画自体が閉じられてしまう。結局のところこの映画、前半は兎も角として後半については焦点が全く定まっておらず、それ故何が言いたいのかさっぱり分からないのである。後半が何となくそれを目指しているように思えるいわゆる評伝がやりたいのなら、それはそれとしてもっと徹底的な形で資料を集めるなり識者の意見を聞くなりをすべきだったし、前半がひょっとしてそうなのかも知れない新しいマリー・アントワネット像みたいなものを提示することがこの映画の目的なら、それはそれで新資料を発掘するなりもっと明確に新機軸を打ち出すなりをすべきだったように思うのだ。
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最後に、サウンド・トラックを褒める向きもあるらしいのだが、バロックにロックなんていう駄洒落としか思えない組み合わせもどうかと思う。使われている楽曲は私の好みでもあるのだが、自分の趣味を押しつけているだけで、何とも一貫性を欠いていてどうにもまとまっていない。唯一光るのはミレナ・カノネロ(Milena Canonero)による衣装デザインで、これは今年度のアカデミー賞にノミネートされている。まあ、これは作品自体がどうにもなっていないので「馬子にも衣装」の域を出ていないわけだが…。以上。(2007/02/09)