高村薫作『新リア王 上下』新潮社、2005.10
尊敬してやまない高村薫による、『晴子情歌 上下』(新潮社、2002.05)以来3年ぶりの大長編である。一応『晴子…』の続編になっていて、主な舞台設定や登場人物は連続しているのだけれど、何しろテーマや語り口が全く異なる作品で、またもやこの作家は新たな境地に至ってしまったのだな、という感慨を覚えたのだった。
この寡作作家が間違いなく意識しているドストエフスキィの作品と同様に何とも読み難い作品なのだが、以下簡単に要約を。晴子の死から既に長い時を経た1987年の初冬。青森県西部のとある荒寺で住職をしている晴子の息子・彰之のもとに、その生物学上の父にして社会的父ではない(要するに彰之は榮と晴子との間に出来た婚外子ということ。)、どうやら失踪中の自由民主党代議士・福澤榮が突然訪れる。二人の対話は1960年代から1980年代中盤に至るまでの、主として榮が見てきた青森県を中心とする地方政治史から始まり、あるいは国政について、そしてまた彰之が見てきた仏教界ひいては凡俗なる者達の諸活動にまで及ぶのだが、やがて二人の対話に登場した諸々の人物達が寺に参集し、というお話。
榮の語りや想起の中で、歴代の政治家達が実名で登場し、様々な疑惑その他に絡んで跳梁跋扈する様は何とも凄まじいものだ。自由民主党から苦情が来ないんだろうか、という危惧も感じたのだけれど、公表され一般に認められている事実以外のことは書かれていないはずで、そういう基本的に冷めた、簡単に言えば「暴露本」的でないスタンスがこの小説の持ち味となっている。
ただ、そう考えると基本的に福澤榮の視点に立つことで貫かれたこの作品の記述スタイルというのは、若干どころではない矛盾も感じさせることとなる。自由民主党代議士であり、1980年代中盤以降党に裏切られる形となったこの人物が、その発言や思考において自ら「報道規制」じみたことをしているのはやはりおかしい。もっと暴露本的な発言なり何なりがあってしかるべきだろう。この辺が、これまでの高村作品とは異なって現実にコミットし過ぎな感もある本作品が抱えた最大の問題点であると思う。
もう一つ付け加えると、この作品の時間というのはあくまでも1987年に置かれているのであり、その時間枠の中で福澤榮や彰之が思考し、喋ったことがこの作品に記述されているわけである。それにしては、榮の記憶力というのは余りにも人間離れしていて、例えば7年ほど前の息子・優が行なった演説を、ほぼ一字一句損なわれないような形で想起している、というのはちょっとあり得ないことではないか、とさえ考えた。
まあ、確かにそういう違和感も端々に感じられた作品ではあるけれど、実はタイトルに端的に現われている通り、父であり王である榮と、出家した彰之や父を裏切って県知事選に出馬する優といった息子達との間に生じてしまった「世代間の断絶」ということがこの作品の本題なのであり、一連の政治劇に関する想起と発話というのはそれを描くべく持ち出されたアイテムなりディテールに過ぎないのでさほど大きな問題ではないのかも知れない。基本的にディテールを重視する私自身は大きな問題だと思うわけだが、この辺り、これをお読みの皆さんはどう考えるだろうか。以上。(2006/02/28)