斉藤美奈子著『冠婚葬祭のひみつ』岩波新書、2006.05

本書は数年前に著しく編集方針が変わった岩波新書の1冊として昨年刊行された、画期的な文芸評論書『妊娠小説』(初出1994年。現在はちくま文庫)で知られる評論家・斉藤美奈子による、「冠婚葬祭批評」あるいは「冠婚葬祭マニュアル批評」とも言うべき内容の本である。
第1章「冠婚葬祭の百年」では明治以降の日本における主として結婚と葬儀のそのありようの劇的な変化を様々な資料を駆使してまとめ、第2章「いまどきの結婚」では『ゼクシィ』等の雑誌から最新のマニュアル本、あるいは恐らく自身の見聞その他から「結婚の現在」を独自の切り口で分析し、第3章「葬儀のこれから」では最新葬儀事情をマニュアル本、研究書などから再構成する。
巻末のブックガイドや参考文献に膨大な数の書誌データが記載されていて、そちらも実に有用なのだけれど、やや茶化し気味の独特な語り口で読者を引き付けつつ、それでもなおきちんと裏をとっている内容でその道の研究者でも参考になるところの多い書物ではないかと考えた次第である。ただ、第1章と、第2、3章ではトーンが変わっていて、後者には著者の考えが結構抑え気味とはいえ多々入り込んでいるのが感じられた。まあ、ほぼ賛同出来るので全く問題はないのではあるが…。
なお、21頁で「野蛮な風習」とされている「足入れ婚」に関する記述、即ち妻がしばらく夫の家でその能力を試され場合によっては実家に帰らせられるもの、というような記述はおかしくて、一般的な理解(辞書にも出ているような、という意味)では婚礼の後妻が実家に戻りそこに夫が通う、即ち「妻問い(つまどい)」、という形をとるのが足入れ婚である。三重県などでは嫁入り後に妻が労働力不足を補うべく昼間は実家に戻って働く、という風習があったのだが、これも足入れと呼ばれていた。また、93-94頁にある、「双系制」が「父系制」に変わって現われる、というような記述はおかしい。日本社会はそもそも双系的な出自原理の強い社会なのであり、これは学問的には常識である。以上。(2007/02/22。2007/08/17に少し補足。)

岩田重則著『「お墓」の誕生 ―死者祭祀の民俗誌』岩波新書、2006.11

またまた岩波新書の近刊を。民俗学者・岩田重則による、基本的に長年のフィールド・ワークで集めた資料を使いながら、民俗学における、あるいは世間において「一般的」な「墓」というものに対する認識に対して修正を迫る内容を持つ好著である。
何よりも論述の進め方が見事である。第1章では静岡県における「お盆儀礼」の事例を挙げながら、そこには柳田國男以来の「お盆=先祖祭祀」という民俗学での「一般」的な認識からは外れる部分が多々あることを示し、続く第2章ではやはり柳田以来の、例えば「両墓制」に典型的に見られるような「霊肉分離」的な原理が日本社会にはある、という「一般」的な認識に対し、中部から関東地方にかけての葬送儀礼や墓の事例から疑義を差し挟む。
こうして先祖、霊、墓、葬礼等に関する「一般」的な認識に対する反例を挙げた後に、本書の中心的な章である第3章では「両墓制」「単墓制」「無墓制」という、これまでの墓制研究において用いられてきた分類に対し新たな分類基準と類型を設定し(103頁、128頁)、それらを駆使しながらやはり第1、 2章と同様に事例に沿う形での分析により、現在研究者も含め多くの人々が「墓」の一般形としてイメージする「お墓」、即ち「カロウト式石塔による先祖代々墓」が、たかだか近世以降、もっと言えばごく最近現われてきたものに過ぎないことを述べ、更にはこちらの方が大事なのだが、我々がそのことについてさほど違和感を持たず、「お墓」への参拝を行なっていることを問題化する。
最終第4章では「異常死」、つまりは子どもの死者と戦死者の死体処理と墓についての考察が行なわれ、本書は閉じられる。この章は墓制や葬礼についての「一般」的な認識を疑い、それを書き換える、という方向性を持つ前3章に比べると、やや論述の形式が異なっている。つまりは、前3章によって書き換えられた視座から眺めることにより、異常死者の墓のような事柄についてもより深い洞察が得られるはずで、その例証として付け加えられた、と解釈すべきなのだろう。ただし、この章は論旨が前3章ほど明確でなく、「靖国問題」への言及を含め、やや付け足し的な印象を受けたのも事実である。以上。(2007/02/22)

小峯和明著『中世日本の予言書 ―〈未来記〉を読む』岩波新書、2007.01

日本文学を研究してきた著者による、主として中世にそれ自体が書かれた、というよりはむしろその解釈本の類(たぐい)が大量に出回った「予言書」の分析を通じて、そこに込められた中世人の思いを検証しつつ、更には「歴史」なるものの多様性について思考を巡らした書物である。後者についてより詳しく言えば、旧来から「偽書」として扱われ特に史学の中では無視されてきたそうした書物群から、唯物史観的な単純構造では語れないもう一つあるいはもっとたくさんの「歴史」が浮かび上がってくるはずで、そういうものの掘り起こしも含める形で、新たな歴史像・歴史解釈が模索されるべき、ということになるだろう。やや脱線するが、このような事が書かれている本が、基本的に唯物史観をその出版理念として持っていたはずの岩波書店から出るようになったというのも、時代の流れなのだろう。こういう柔軟さは決して悪くない、というよりはむしろ良い事だと思う。
扱われている「予言書」は『野馬台詩』及び〈聖徳太子未来記〉と名付けられたテクストで、前者は確定した五言二十四句からなる短い詞句、後者についてはそれに類したタイトルの書物類やそうしたものへの言及を含む書物類、ということになる。これだけだと何とも分かりにくいのだが、詳しくは本書や小峯氏の多々ある前著を読んでいただくとして、いずれにせよ、それらを解読する事で浮かび上がる、中世の中でも特に混乱を極めていたような時期に「予言書」の類、つまりは未来を語ると同時にこちらが大事なのだがその当時の歴史解釈をそこに仮託するような書物が溢れるという事実は、「予言」や、あるいは私自身が研究対象にしてきた巫女(ふじょ)の「託宣」といったものが帯びる〈社会性〉を端的に示すものであろうと考えた次第である。以上。(2007/02/24)

森博嗣著『τ(タウ)になるまで待って PLEASE STAY UNTIL τ』講談社ノベルス、2005.09

森博嗣によるGシリーズ第3弾の長編。加部谷、海月(くらげ)、山吹のC大学トリオが私立探偵である赤柳初朗(あかやなぎ・はつろう。勿論名古屋名物「青柳ういろう」のもじり。)に調査バイトという名目で連れられて入ったとある山奥の建築物で起きた密室状態での殺人事件の謎とその〈解決めいたもの〉が描かれる。(読点無しで申し訳ないのだが修飾関係的に入れるのは無理。)
事件とその〈解決めいたもの〉について言えば短編程度のヴォリュームで書けそうなくらいのもので、それが300頁を超える分量にまで希釈されている、という印象を受けた。更に言えば、3冊目まで読んできて、どうやらこのシリーズは、本書もそれに含まれるはずの「ミステリ」というジャンルのテクストが追求すべきだろうと私個人は考える〈読者への小説的カタルシスの附与〉を最初から目指していない、というよりはむしろ意図的に排除しているような気がしてきた。「これはミステリではない。」というのなら話は別なのであるが、かといって竹本健治や山口雅也が行なったミステリの解体のようなことが目指されているわけでもない、というのは問題ではないか、と考えた次第である。以上。(2007/02/28)

森博嗣著『ε(イプシロン)に誓って SWEARING ON SOLEMN ε』講談社ノベルス、2006.05

もう3月も終わってしまうが、それは兎も角、と。本書は上の本と同じ森博嗣によるGシリーズ第4弾の長編で、何者かによりジャックされた、どうやら《εに誓って》という名を持つ宗教団体めいた集団のメンバが数多く乗車しているらしき高速バスに、偶然なのか必然なのか良く分からないけれど兎に角乗り合わせてしまった加部谷・山吹両名と、彼らの無事を祈りつつ情報収集に奔走するいつもの面々の活躍などを描く。
コンパクトな作品だけれど、それなりに色々な仕掛けが施されていて、単体としても悪くない作品ではないと考えた次第。実のところこの作品は森ファンの間では酷評気味なのだが、それは「ジャンル」のようなものにこだわりすぎているからではないだろうか。まあ、別に森博嗣がこれを書かなくても良いのではないか、とも思ったりもするのだけれど…。以上。(2007/03/30)

森博嗣著『λ(ラムダ)に歯がない λ HAS NO TEETH』講談社ノベルス、2006.09

森博嗣の本が続いているけれど、この後にもう1冊続きます。それは兎も角、と。本書はGシリーズの第5弾となる全271頁の長編。密室状態にあったとある建築関係の研究所内で発見された、歯を抜かれた身元不明の四つの死体の謎が物語の骨格をなす。
デビュウ時から言わば「研究所もの」を最も得意としてきた森博嗣の作品らしいシチュエーションとディテイルの作り込みで、前半はそこそこ引き込まれた。しかし、である。後半部分は凡庸なミステリにみられがちな「取って付けた」ような内容になっていて、正直なところ愕然とした次第。これだと「何でもあり」になってしまう気がする。
ちなみに、この本の舞台や死体の位置などは図示されるべきだったと思うのだが、作っている時間がなかったのだろうか。実際問題、本書についてはこの辺にも手抜き感を否めないのである。以上。(2007/04/01)

森博嗣著『η(イータ)なのに夢のよう Dreamily in spite of η』講談社ノベルス、2007.01

ふう。やっと追いついた。そうなのだけれど、この達成感の無さは一体なんなのだろう…。
一応現時点で出ているGシリーズの最新刊にして第6弾の長編。真ん中を過ぎたのであろうこの作品においては、西之園萌絵が実に明確に主人公として扱われている。そんなこともあってここから先、加部谷・山吹・海月トリオの存在感は更に希薄になりそうな予感がしている。
さてさて、この作品、「η(イータ)なのに夢のよう」という言葉が色々な形で関連付けされた謎の首吊り死体群を巡る話かと思いきや、徐々にそんなことはどうでも良くなってしまい、S&Mシリーズから持ち越されていた大きな謎に話の中心が移ってしまう。そっちの話はそこそこ面白いだが、一冊の本としてみるならば、正直なところこれは一体何なのだろうか、小説として成立していないのではないだろうか、と、思わず首を傾げたくなった次第。
以下蛇足だけれど、西之園はこの作品の時間内でどうやら就職が決定したらしいのだが、そこは私の母校なのである。学部も同じなのである。学科は違うのである。まあ、どうでも良いことなのだが…。(2007/04/04)

西尾維新著『ネコソギラジカル 上・中・下』講談社ノベルス、2005.02・2005.6・2005.11

一昨年に刊行された西尾維新による「戯言」シリーズの完結編三部作である。第1作の第23回メフィスト賞受賞作にしてこの著者の記念すべきデビュウ作である『クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い』(講談社ノベルス・以下同様、2002.02)から始まるこのシリーズ、基本的には本格ミステリという体裁を取りながら、最終的には、1990年代から文学界を席巻し始めたキャラクタ小説・キャラクタ文学というジャンルの一つの到達点でも言うべきものを示してしまったという点において、日本近代文学史上に残る作品という言い方も決して大げさではない、とさえ考える。
以下、第2作から本作までの正確なタイトルと刊行年月を列挙する。第2弾『クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識』(2002.05)、第3弾『クビツリハイスクール 戯言遣いの弟子』(2002.08)、第4弾『サイコロジカル (上) 兎吊木垓輔の戯言殺し』(2002.11)・『サイコロジカル (下) 曳かれ者の小唄』(2002.11)、第5弾『ヒトクイマジカル 殺戮奇術の匂宮兄妹』(2003.7)、第6弾『ネコソギラジカル (上) 十三階段』(2005.02)・『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』(2005.06)・『ネコソギラジカル (下) 青色サヴァンと戯言遣い』(2005.11)。読みにくい字が多いのだけれど、それらについては本体を当たっていただきたいと思う。
こうしてみると、第5弾までの刊行ペースが異様なまでに速いこと、『ヒトクイマジカル』から『ネコソギラジカル』までの期間がかなり長いことに気付くのだが、この辺りは例えば恐らく子どもの頃から書きためていたネタが『ヒトクイ』までで一旦切れたことや、作家としての活動がとんでもなく忙しくなっていったことにも起因するのだろう。あくまでも邪推に過ぎないけれど。
さてさて、この完結編の中身について詳しいことを語る気はないのだが、ごく個人的には、「いい話だなぁ。」という感想を抱いたのだった。この完結編、基本的には主人公にして語り手の戯言遣い・「いーちゃん」と美少女天才工学者・玖渚友(くなぎさ・とも)が、宿敵・狐面の男との闘い等々といった様々な事件の出来を経ながら、互いの思いを確認していくという流れを中心プロットとする何とも巨大な物語として読んだのだが、その実、本当に「いい話」なのである。まあ、正直なところを言えば確かにそれだけではなくて、その実大変な情報量を持つ作品ということもあってこれを読み進めていた私の頭の中には誠に色々な思考が生成され、交錯したのだが、その辺りのことは本人(これを書いている平山)に直接聞いて欲しいと思う。
以下、蛇足。特にその文体やキャラクタ造形において大変なオリジナリティを持つこのシリーズでは、そうではありながら過去に創られた数々の少年・少女マンガその他からの膨大な数の引用が行なわれている。中でも荒木飛呂彦作の未だ連載中でありかつまた歴史に残る名作『ジョジョの奇妙な冒険』(集英社)からの影響は絶大なものがあり、ついには「スタンド」という単語まで登場させるに至っている。勿論、誰もが指摘しているとは思うのだが、同じメフィスト賞出身の森博嗣と清涼院流水、そしてまた清涼院とは切っても切れない関係のそもそも今日におけるキャラクタ文学というジャンルを作った張本人の一人であるマンガ原作者にして作家・批評家の大塚英志からの影響はかなり大きいと思うので一応書き記しておく。以上。(2007/04/29)

河西英通著『続・東北 ―異境と原境のあいだ』中公新書、2007.03

既に紹介した『東北』(2001)の続編である。前著では概ね藩政期から昭和初期までが扱われていたが、今回は大正期から第2次大戦後までが射程となっている。ということは、昭和初期における「大凶作」から戦時下にあった頃の時期がメインで、基本的にはその時期に刊行された、論文や小説から手記、あるいは政治家や活動家、行政にたずさわる者の言説等々までを含む、雑誌や書籍記載された膨大な数のテクスト群が分析対象となっている。
結論として「東北」は、前著で示されていたような、明治期を経ることにより与えられることとなった「異境」のイメージが反転する形で、いつしか「原境」と見なされるようになった、ということになるのだが、それが戦後、あるいはバブル崩壊後においてどう変遷したのか、という分析も、今後更に続けて書かれることになるのだろう。
その点についてごく個人的には、「単一民族論」とも通底する原境的なイメージから、やがて「東北は多様な日本のうちの一つのまとまり」、というような見方が定着していったように考えているのだが、いかがだろうか。ちなみに、私自身は単なる地勢学上の一括りで、言わば便宜的に使うだけのものとしか見ていないことを繰り返しておきたい。現地調査を繰り返したことにより、その内部に存在する多様性の大きさを良く認識しているからである。
付け加えるが、大正期における、東北≒スコットランド説の流布、という部分を大変興味深く読んだ次第である。それこそ地勢学的な位置、あるいは辿ってきた歴史などを鑑みると、慧眼とも言いうる学説・言説なのではないかとさえ思う。ただし、そう言い切ってしまうことで見えにくくなってしまう可能性のあるそもそもの文脈の違い、ディテイルの違いなどもまた、言うまでもなく重要なのである。以上。(2007/05/07)

東浩紀著『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』講談社新書、2007.03

本書は、2001年に刊行されたオタク文化論『動物化するポストモダン』(講談社新書)の続編にあたる。前著では要するに、「大きな物語」が失われた「ポストモダン」という状況下では、「小さな物語」、あるいはデータベース化された情報の消費こそがその代替となる、そしてまたそこにおいては共同体や共同幻想を背景とする間主観的な人間的欲望ではなく、共同性を前提としないあくまでも個人的な「動物的」欲求を満たすことだけが目指されることとなっている、ということが論じられていた、と記憶している。
さて、この本の目的として、その序章には、前著のターゲットが日本社会であったのに対し本書のそれは広義の「日本文学」に置かれている、という旨が述べられている(p.15)。とは言え、「筆者の関心は、オタクという共同体や世代集団の考察にではなく、彼らの生を通して見えてくる、ポストモダンの生一般の考察にある。…『動物化するポストモダン』が「動物的」と描写したポストモダンの消費者が、それでも「人間的」に生きるためにはどのように世界に接すればよいのかという、前著から引き継がれた、複雑でそして実存的な問題と深く関係している。」(p.23)という言葉が示す通り、その射程はあくまでも日本社会であることが分かる。
では本書で具体的に何がなされているかと言えば、上記の通り広義の「日本文学」、中でも「キャラクター小説」や「ライトノベル」と称される作品群、更には小説のようなゲーム群、あるいはまたゲームのような小説群が分析の俎上にあげられることになる。その分析においては基本的に大塚英志の議論を援用しつつ乗越えることが目指されており、「自然主義的リアリズム」に対比されるべき「まんが・アニメ的リアリズム」、あるいは本書のタイトルにもなっている「ゲーム的リアリズム」を持つ現在巨大なマーケットを獲得するに至っている上に記したような体裁を持つ作品群が、「環境分析的」な観点から批評されている。
何故「環境分析的」批評が要請されるのかと言えば、それは要するに、小さな物語の集積であるデータベースを背景とした、基本的にメタ・フィクショナルな構造を所有するそこにゲーム的リアリズムの存在を読み取りうる作品群が、旧来からある自然主義的リアリズムを持つ内部で完結した作品群とは異なり、その作品が「ある環境に置かれ、あるかたちで流通するというその作品外的な事実そのもの」に注目して読み解かれざるを得ないから(p.157)、ということになる。
勿論、このような批評のあり方というのは、ポストモダン以降の文学批評などで頻繁に行なわれてきた「間テクスト性」(J.クリステヴァの造語である。)への注視を含むテクスト読解と実のところ構造的には変わるところがない。本書にはこの極めて重要なタームが登場しないのだが、実は、この言葉を使ってくれるとこの人の言わんとすることが非常に見て取りやすかったのではないかとも思うのである。ちなみに、そう考えると確かにこの本で用いられている分析手法自体は特に目新しいものではないのだが、そうではあっても、目新しい素材であるそれこそポストモダンを体現するゲーム的リアリズムを内包する作品群の読解に、そうした技法が有効であることを示したことには極めて大きな意味があるのである。
最後になるが、個人的には、確かに絶妙なネーミングであるゲーム的リアリズムの存在を感じ取ることが出来る膨大な数の作品が執筆され、製作される中、それをどう読むのか、ということについての明確な指針のようなものが示された画期的な評論、と言い得るのではないかと考えた。更に言えば、新たな「読み方」=環境分析的批評が要請される根拠とその方法を提示した上で、それに沿う形で行なわれている個別の作品論は極めて秀逸なものである。5年後に刊行されるべきパート3にも期待したい。以上。(2007/05/16)