日本宗教学会第58回学術大会報告 1999/09/18 @南山大学

以下、当日配布レジュメのテクストです。

「口寄せ巫女」の「共同祭祀」−山形県庄内地方の事例を中心に−

はじめに
 本報告では、巫俗と村落社会の関係について、山形県東田川郡三川町の「ミコサマ」と呼ばれる「口寄せ巫女」であるO・M巫女が行っている「共同祭祀」の事例を提示し、考察を加える。
 さて、これまでのところ東北日本の巫俗研究においては、研究の中心は巫女自身の成巫過程やその巫業、あるいは祭文や巫具等におかれてきた。しかしながら、巫俗が、巫女とその依頼者を担い手として成立している以上、依頼者側の検討もまたおろそかにされてはならないであろう。また、ここでもう一つ指摘しておくべき点は、巫女への依頼には大きく分けて個人的なものと集団的なものが考えられるが、特に口寄せ巫女を含む民間巫女に関しては、個人的な依頼による巫業がその業態の中で際立って注目されてきたが故に、集団での依頼による、場合によっては村落規模で行われる祭祀へのそうした巫女の関与に関するまとまった研究は、古くは楠正弘による下北半島の「オシラサン」の祭祀集団研究、近年では佐治靖による福島県の「シンメイ巫女」による「共同祭祀」の研究がある程度で、今後さらに多くの事例が集められ、比較検討がなされるべき領域である。
 以下、報告者が、そうした欠落を埋めるべく行ってきた、山形県庄内地方の巫俗調査の中から、O・M巫女の行っている共同祭祀10数例の中から4例を示し、特に依頼者側の、巫女が下す「託宣」への対応に重点をおいて考察を行ってみることにする。

1.事例
 同町猪子に住むミコサンO・M巫女は大正12年(1923年)生まれで、高等小学校の頃失明し、32-3歳で鶴岡市内のミコサンに弟子入り、まる2年の修行の後、「ダイジユルシ」(=成巫式)を行って成巫したという。「ホトケオロシ」は2、3、4、9、10月のみで、午前中はカミサン、午後はホトケサンをおろしていたというが、6-7年前に病気をしてからはやめているという。「カミアソビ」は春と秋で、春については以下に挙げるの数多くの祭典に関わる他、秋にはオコナイサンをおろして貰いに来る家がある。
 以下、同巫女が関与する共同祭祀の事例を挙げる。 @猪子:三つの祭祀集団があり、それぞれ別個に祭祀を行っている。 a.八幡講:八幡神社は旧無格社で、同講には猪子を上・下二つに分けた「下」のうちの60戸が加入している。祭典は3月19日で、事前に(本年は3月3日)O・M巫女のところで託宣を聞いてくる。これが直会の席で配られる「八幡神社収支計算書」に簡潔にまとめられて記載される。清書は行われない。 b.地神講:同じく「上」の54戸からなる。3月21日が祭典日で、事前に(本年は2月28日)O・M巫女のところへ託宣を聞きに行き、今年の場合には録音し、要点をワープロ打ちしたものを直会の席で配布し、さらにこれを「堅牢地神講御託宣」と表紙に書かれた帳面に墨書にて清書し、次の宿元に渡す。託宣の最古の記録は大正10年のものである(当日配布分では明治13年となっていました。訂正します。但し、地神講自体の最古の記録は明治13年で間違いありません。)。 c.大神講:旧村社琴平神社境内にある天照皇大神宮を祀る祭祀で、講員は20名、祭典日は3月16日である。事前に(本年は3月10日)O・M巫女の託宣を聞きに行き、当日直会の前に口頭で報告する。本年は3月10日に聞きに行き、直会の前に報告したという。託宣を記録した紙片(大学ノートや原稿用紙にボールペンその他で書かれている。昭和55年のものが最古である。)があり、会計記録などと一緒に箱に入れ、祭典が終わると次の年の宿元に渡される。 A成田新田:4月24日の旧村社八幡神社の祭典にO・M巫女を招き、同神社の拝殿にて、全員男性からなる当屋及び総代の計約30名の前で託宣を行う。初午の日(本年は2月11日)には「初午講」が行われ、こちらはかつてはO・M巫女の元に祭典当日の早朝に託宣を聞きに行き、その後公民館にて12名ほどが集まって祭典を行った後、託宣の内容をかなり克明な形で墨書し、公民館の一室に張り出していたという。この張り紙はかなり古い時期(最古のものは大正12年)のものまで保存されている。

2.考察
 ここでは、以上に述べたことから三つの点を指摘しておく。
@O・M巫女の行っている祭祀の依頼者集団側の対応、特に託宣の取り扱い方にはかなりのヴァリエーションがあることが分かった。これについては、巫女側は特に指示を出していないし、各祭祀集団間にも連絡があるとは考えられないため、各祭祀集団独自の判断によるもの、と見て間違いないだろう。これは、画一的といってよいだろう、神職が執り行う各種祭祀や僧侶が執り行う死者儀礼とは大きく異なっている。巫女の宗教職能者としての性格による部分もあるには違いないのであるが、祭祀集団側の自由自在な対応にも注目しなければならないだろう。
Aしかし、一旦作り出された対応の仕方は、その後保持されるものであるということもまた興味深い。近年「伝統の発明」なる現象に注目が集まっているが、ここではある時点で(その時期は不明である)、「託宣を書き残すこと」、という「伝統」が「発明」されたのは間違いないことではあるが、「伝統」というものの持つ継承性、という元々この語が含意している性質を再考する必要があると考える。一度「託宣を書き残す」ということが行われた場合、「書かれたもの」の持つ保存力の強さが翌年以降にはある種強制力として働き、それを「伝統化」していく、というプロセスを、今回紹介した事例からも垣間見ることが出来るだろう。
Bただし、長期間の記録が存在する事例においては、託宣の書き残し方にも変化が生じているのも事実である。これは再び、@の問題と結び付き、巫女ならぬ巫俗の持つ「イノヴェイティヴ」な性格を反映したもの、と見てよいのではないかと考えるものである。

<参考文献>
大川廣海「山形のミコ」『民間伝承』第十四巻第九号、1950
楠正弘「下北地方における『オシラサン』祭祀集団について」『人類科学』、17、1965
佐治靖「オシンメイサマの共同祭祀と憑霊信仰」『日本民俗学』176、1988
田中雅一「司祭と霊媒−スリランカ・タミル漁村における村落祭祀の分業関係をめぐって−」『国立民族博物館研究報告』15巻2号、1990
原田敏明「部落祭祀におけるシャマニズムの傾向」『民族學研究』、14-1、1949
Gerald D.Berreman,Brahmins and Shamans in Pahari Religion,The Journal of Asian Studies,Vol.]]V,1964
William A. Lessa & Evon Z. Vogt,Shamans and Priests,Reader in Comparative Religion:An Anthroplogical Approach,Row,Peterson and Co.:Evanston,Illinois,1958
David G. Mandelbaum, Transcendental & Pragmatic Aspects of Religion,American Anthropologist,vol.68 no.5,1966
S.F.Nadel,A Study of Shamanism in the Nuba Mountains,The Journal of the Royal Anthropological Institute,Vol.. L]]XT Part T,1946
Maurice Bloch,Symbols,Song,Dance and Features of Articulation:Is religion an extreme form of traditional authority?,Archives Europeennes de Sociologie,Tome ]X Numero 1,1974