以下、学会当日私が配布したレジュメの全文書です。

日本民族学会第33回研究大会レジュメ  1999/5/29 @東京都立大学

  東北日本のシャマニズムについて−「口寄せ巫女」の「共同祭祀」を事例として−

                                                                        平山 眞
                                                    東洋大学大学院・社会学研究科
はじめに
 本報告では東北日本のシャマニズム(巫俗)に関して、「口寄せ巫女」(1)による「共同祭祀」(2)について、山形県庄内地方の一事例を採り上げ、考察を加えたい。
 東北日本で活動する口寄せ巫女などの民間巫女については、かねてより多くの研究がなされ、その分布や呼称、成巫過程、巫業等については大部分が明らかにされてきた。しかし、彼らが村落社会において果たす社会的機能に着目し、村落の社会構造及び宗教文化全体の中で捉え記述・分析するような社会人類学的な研究は、沖縄県や奄美諸島等に比べ、成果に乏しいものと思われる。柳田國男による先駆的な巫女研究においては、彼が「口寄せのミコ」と呼んだ巫女の主な業態はあくまでも「死霊、生霊の口を寄せる」ことであるとされ(柳田、1990(1913)、pp.308-10)、共同祭祀への関与に関する言及はなされなかった。終戦直後に、例えば原田敏明もまた日本国内のシャマンの私的性格を強調した(原田、1949)(3)のだが、この頃には既に堀一郎が「人神(ひとがみ)」の問題と絡めてシャマニズムと村落社会の関係に言及していたのにも関わらず(堀、1951)、上記のような研究状況は堀自身もその一部を担っていた1950年代から70年代までの石津照璽、楠正弘、櫻井徳太郎等のシャマニズム研究にも色濃く残り、1980年代以降ようやく村落社会における共同祭祀的な活動に目が向けられることになりつつあるというのが実情であると思われる。
 ここで、これまでに明らかにされてきたシャマンの共同祭祀への関与に関する研究を概観すると、東北6県の巫者・祈祷師の活動内容についての資料として、石津を中心に行われていた調査をまとめた幾つかの文献には断片的ではあるが集団で行う「神おろし」に関する記述がある他(石津、1969b、p.4。岡田、1977、p.241)、櫻井や楠の諸論考にも、あくまでも口寄せ巫女の特質は死者の口寄せであるとしつつも断片的ではあるが共同祭祀に関する記述がある(櫻井、1976。楠、1973、p.41)。また、最近大橋英寿他がまとめた、1981年頃からの同氏らの講義の受講生の調査によるものがあるが、これを見ると確かに彼らの活動が「病気治し」や「仏おろし」に重点を置いていることは確かなのだが、「神おろし」や「祈祷」、「祓い」といった、共同祭祀ともとれる活動が少なからず行われていることが見て取れる(大橋他、1993)。更に、同じく東北地方に限れば、専らシャマンとカテゴライズされてきた巫女達、即ち青森県の下北半島における「カミサマ」による「カミアソバセ」や、「イタコ」による「春祈祷」や「オシラサンアソバセ」(高松、1993。楠、1984(1970))、岩手県南から宮城県北の海岸部に見られる「オガミサマ」や「ミコサマ」による「カミサマアソバセ」(平山、1996a)、山形県西田川郡温海町小岩川でかつて「ミコ」によって行われていた住吉神社例祭前日の「湯立て」における託宣(佐藤、1988)、同県東田川郡羽黒町の「ミコサン」による周辺数集落における託宣を聞く行事(私自身の調査による。未公刊。)、以下で取り上げる三川町のミコサンによる数多くの村落での託宣(同じく私自身の調査による。未公刊。)、更には同県最上郡真室川町で数年前まで行われていたある「オナカマ」による30集落に及ぶ「巡業」(鈴木、1994)、同県東村山郡中山町のオナカマによる最近まで行われていた岩谷十八夜観音における託宣(烏兎沼、1987。平山、1999)、福島県南地方における「ワカ」による「村祈祷」(佐治、1995)等、また、これ迄は必ずしもシャマンに含められて来なかったにせよ近年そのシャマン的性格が注目され始めた、岩手県宮古市周辺における「神子」による「湯立て託宣」(文化庁文化財保護部編、1985。神田、1992)や、シャマンが関与するわけではないが「シャーマニックな特質」が見出せるという「オシンメイサマの共同祭祀」(佐治、1988)、のような事例が存在するなど、枚挙に暇がないのである。
 以下、山形県東田川郡三川町猪子における、「ミコサン」と呼ばれる口寄せ巫女による共同祭祀の事例を取り上げ、若干の考察を加えてみたい。

1. 事例
1-1 猪子の概略
 総人口は8,086人、世帯数は1,957戸、世帯当たり人数は4.1人である(1998年4月1日現在)。第一次産業937人、第二次産業1,705人、第三次産業1,796人、第一次産業の内訳は、農業937人、林業・漁業共に0人となっている(1995年の国勢調査による。)。猪子のある東郷村及び横山村、押切村は昭和30年(1955)に合併して三川村となり、昭和43年(1968)には町制を施行し三川町となった(三川町、1998)。
 その沿革を『猪子のあゆみ』(猪子のあゆみ編さん委員会、1990)では、「その開発の年代は不明である」(同、p.9)が、「B 慶長以前の猪子は、自然堤防にわずかの集落を形成し、その後背地の低湿田で、洪水やかんがい用水の不足に苦しみながら農業を営んでいた。C 慶長末年(1614:平山注)の青龍寺川開さくによって用水を得た猪子は慶長〜元和〜寛永期に新田開発が進み、村の基礎を築くのである。」(同、p.11)と説明している。
 耕地面積では、明治17年(1884)の文書には「農耕地として田一七三町一反二畝十八歩、畑四一町三反三畝一二歩」とあるそうであるが(同、p.145)、1988年には田207ha、畑15ha(同、p.184)となっており、水稲耕作への移行がよく分かる。
 猪子は182世帯、819人(1998年6月30日現在)からなる。全戸加入の「ケーヤク(契約)」が存在しており、これがかつての葬式組であったらしく、5-6人ずつが一つの「組」になっており、各組で死者が出た場合その組で火葬をし、これを「ノバ」といったそうである(4)。現在冠婚葬祭は猪子在住の「シンセキ(親戚)」が主体となって行い、葬儀委員長を本家にするという例もある。また、猪子は赤川の上流側の家々を「上」、下流側の家々を「下」と分けており、それぞれに後述の「八幡講」・「地神講」がある(5)。

1-2 猪子に住むミコサンO・M巫女
 大正12年(1923年)に生まれ、高等小学校の頃失明し、32-3歳で鶴岡市内のミコサンに弟子入り、2年間の修行の後、「ダイジユルシ」(=成巫式)を行って成巫したという。守護神は「お不動さん」で、「オコナイサン」(6)はダイジユルシの際に貰った覚えがあるという。「ホトケオロシ」は2、3、4、9、10月のみで、午前中は「カミサン」、午後は「ホトケサン」をおろしていたが、6-7年前に病気をしてからはやめているという。1日に25-6人の客があり、「三十五日を過ぎてナマではなくなったホトケ」をおろしていた。カミやオコナイサンをおろすことを「カミアソビ」と呼び、春については下記の各種祭祀に関わる他、秋にはオコナイサンをおろして貰いに来る家がある。それらカミアソビについて、猪子の他では、三川町内では押切、横山、土口、成田新田、対馬、酒田市内では中村、三本柳、余目町内では南野、古関の各集落で行っているということである(7)。

1-3 ミコサンが関与する共同祭祀
@旧村社琴平神社
 元々は普門院あるいは清水山慈眼寺と称し、明治10年(1877)同境内の「観音様」が神仏分離令(1866)により移されたため(現在は洞泉寺境内にある。)、「新たに、ご神体を勧請し琴平神社となった。」(p.85)祭神は「大物主大神」、相殿は「天照大神」である。宮司S・S氏が同地区に在住しており、「太夫様」と呼ばれている。 かつては4月23日(以下、特に示さなければ新暦)の例祭では「湯立舞」あるいは「太夫舞」が行われていたらしいが、「いつ頃より行っていたかは記録がない。」(p.87)という。本年の見学時には拝殿横に仮舞台が作られ、「弓舞・鳥居舞・天狗舞・翁舞・重箱舞・巫女舞」(p.87)らしきものが行われていたが、同書の記述同様、設えられていた鍋には湯は入っていなかったようである。なお、斎主はS・S氏がつとめるが、上記の舞を舞う太夫3名と笛吹役は余目町より、巫女と「ケンペイシ」は酒田市から来ていた。氏子は猪子の全戸からなり、神社役員7名と氏子総代3名がいる他、毎年交替する「当屋」(=「神宿」)の家族及び自宅がほとんどの行事の中心となる。この祭祀へのミコサンの関与はない。
 同境内の天照大神を祀る祭祀として「大神講」があり、講員は上・下両方の世帯を含む20名からなる。祭日は3月16日である。「当番」(または「当組」)は「宿元」1軒とその他3軒からなる。事前にO・M巫女の託宣を聞きに行き、当日直会の前に口頭で報告する。本年は3月10日に当番の家の女性4人で行ったという。「掛軸」と毎年の託宣を記録した帳面等があり、祭典が終わると次の年の宿元に渡す。実際に見学することは出来なかったが、当日は宿元宅で掛軸を床の間に掛け、8:30頃より御祈祷し、斎主である太夫様(S・S氏)はその後隣の集落である青山の神社での祭典に行き、11:00には戻って来て、宿元宅の座敷で直会になり、14:00には終了したということである。
A旧無格社八幡神社
 社伝によると慶長10年(1605)の創建になるらしい(猪子のあゆみ編さん委員会、p.92)。元々の例祭は旧暦4月9日であったが、現在は3月19日である。祭神は「玉依昆賣命・譽田天皇・息長帯姫命」である(同、p.92)。例祭は下の60戸が加入する「八幡講」によって行われる。5軒ずつの12組に分かれており、1年交替で各組が当屋(あるいは当組。うち1軒が宿元。)になる。例祭前にはO・M巫女のところで託宣を聞いてくるのだが、本年は3月3日に宿元の主婦ともう一人の計2名で聞きに行ったそうである。「平成十年度八幡神社収支計算書」記載の託宣の内容は作柄・災難のある月・注意すべき方位、生まれ年に関するものである。「八幡大神」と「八幡太郎義家」の掛軸とともに次の宿元に渡される帳面には会計報告のみが記載され、託宣の清書は行われないらしい。
 例祭は11:00の開始予定であったが、酒田市在住の太夫様(8)が遅れたため、11:56より始まった。責任役員3名及び世話役3名の男性6名と女性8名が八幡神社の社屋に集まっていた。幣祓い、祝詞奏上、玉串奉奠があり、12:18には終了し、12:45より公民館のホールにて直会となった。参加者は男性25名、女性21名程であった。会計報告などの後、13:20に乾杯、13:45にはホールの入り口近くで「当屋渡し」が行われる。14:45には人が少なくなり自然散会。私は始まる前に退出したが、その後、16:00過ぎに公民館の第1、2室で宿元夫妻とその他の当組の男性と世話役・責任役員のみによる直会が行われ、18:00頃までには終わったようである(9)。
B堅牢地神
 通称を「地神様」といい、明和2年(1765)の創建とされる。祭神は「堅牢地神」(以上、猪子のあゆみ編さん委員会、p.97)で、社屋はなく、石碑が立つのみである。上の54軒(昨年までは55軒)からなる講中があり、5軒ずつの11組に分かれており、その内の1組が順番に当屋(または当組。うち1軒が宿元)になる。3月21日に地神講が行われるが、その前にO・M巫女に託宣を聞きに行き、これを印刷したものを当日配布する。本年は2月28日に当屋の5軒の主婦5名で聞きに行き、「託宣」の部分のみを録音してきてあった。当日配布の印刷物は「堅牢地神講御託宣」と題され、八幡講のものよりかなり詳しく書かれている。これは「堅牢地神講御託宣」と表紙に書かれた帳面に清書され、会計帳や掛軸と共に次の宿元に渡されることになる(10)。
 祭典は当屋のみが集まって宿元宅にてS・S氏を斎主として9:20より始まり、幣祓い、祝詞奏上、玉串奉奠が行われ、9:31には地神様へ移動する。幣祓い、祝詞奏上をし、9:40には終了。10:00には一同公民館へ移動する。直会の準備は当屋のみで行い11:00過ぎに一旦昼食をとってしばし休憩。12:00には直会が始まったが、当番12名(宿元は親子二代が夫妻で参加)の他、男性27名、女性7名位が参加していた。13:00に当屋渡しが行われ、14:30には人がいなくなって自然散会し、16:09には当屋の方々のみの直会が公民館の第1、2室で始まり、18:30には全てが終了した。

2. まとめ
 問題点は神田により端的に指摘されている。それはすなわち、「神子は一度としてシャーマンとみなされたことがなかった。神社で神子舞を舞うからである。」(神田、1995、p.30)ということである。ここでの問題に即して、これまでの口寄せ巫女研究を神田に倣ってごくおおざっぱにまとめてしまえば、「彼女らはプリーストとして扱われたことはなかった。それは、彼女らが口寄せを行うからであった。」ということになるかも知れない。なお、神田は1995年の論考の中では神子を必ずしもシャマン(或いはシャーマン)であると明言してはいない。しかし、その必要はないだろう。何故なら、依頼者や成巫過程にあると考えていよい人々もまたシャマンの特徴とされる意識の変成状態を経験している、という事例は佐治(1989)などによっても報告されているのであって、大事なことは、シャマニックな宗教現象を宗教職能者のみが持つ特徴である、というような限定を取り払い、むしろそうした宗教現象の全体像を把握するためにより視野を拡げ、これまでシャマンとされてきた人々以外にも目配りをする必要があるのではないかと考える。
 ところで、私は勿論、宗教職能者の分類学に拘泥する積もりはない。私が目指すのはその先なのであって、例えば今回取り上げたミコサンのような共同祭祀に関わる口寄せ巫女の社会的役割を、社会・文化的コンテクストを考慮しつつ正確につかみ出すことにある。そのためにこそ、まずは既存のシャマニズム論の枠組みについてもう一度見直すべきではないか、というのが今回の報告の主旨であった。今回取り上げた事例に見られるような東北日本の口寄せ巫女の示す少なからぬ「プリースト性」(11)は、そうした枠組みを突き崩し得るものではないかと思うし、また、O・M巫女が集落全体の祀る神社ではなくやや格下の神社・小祠の祭祀に関わる、という点が、彼女の共同体内における位置付けを考える上でのポイントになるであろう。今後は、他地域との比較を行いつつ、口寄せ巫女の共同体内における社会的機能に関する分析を更に緻密なものにしたいと考えている。

 <注>
(1)赤坂憲雄は、「東北には巫女とかシャーマンとかに分類される女性達がたくさんいるけれども、初めてKさんにお会いして話を伺いながら思ったのは、民俗学者ならすぐ張りつけるであろう『口寄せ巫女』なんて言葉じゃ絶対にとらえられない、そういう言葉でわかったような顔をしてはいけない人生がここにあるということでした。」(赤坂、1996、pp.250-1)と述べている。言いたいことはよく分かるのだが、「民俗学者」達も実のところ確信犯的にそういう抽象化をしてきたのではないかとも思う。何らかの抽象化をしないことには研究が成り立たないということは明記しておきたい。問題は、様々なテクニカル・タームが、既にその意味するところが自明であるかのように思い込むことにこそ存在するのである。
(2) 「共同祭祀」という表現は佐治靖(1988)に倣っているが、ここではこれまで用いてきた「公的祭祀」とほぼ同様の意味で用いる。そして、「ここでいう『公的』とは例えば何らかの儀礼がある集団の目的達成を意図することを指し、逆に『私的』とはそれが個人的レベルに属する問題解決を目指すことを指す。」(平山、1996a、p.74。以下、引用文中の「」は『』に置き換えている。)なお、古語の「オホヤケ」が「大宅」(=大きな家)の訓であり、転じて「朝廷」や「天皇」をも意味していたことも記しておく。
(3) これはシャマニズムと新宗教教祖の関係について論じた小口偉一(1951)にも当てはまる。
(4)この辺りの話を覚えている方が少なく、その記憶も断片的なものであるため、この部分の記述はそれらの人々からの断片的な聞き書きを元に私が再構成したものである。
(5)また、行政的には1区(57戸)、2区(44戸)、3区(37戸)、4区(44戸)に分かれている。宗教的な講としては、他に「観音講」、「地蔵講」、「道元講」、「梅花講」、「大網講」、「庚申講」、「念仏講」、「金峰講」などがあり、各家で祭っている屋敷神は大抵「稲荷様」であるという。
(6)青森県や岩手県ではオシラサマと呼ばれる2体からなるご神体・採り物に類似したもの。
(7)この内成田新田(4/25)、南野・古関(4/24)における祭祀を本年見学することが出来たが、省略する。
 なお、オコナイサンを祀る家は猪子には2戸存在し、それぞれ秋になるとO・M巫女の家を訪ね、「コロモ」を着せて貰ったという。平成9年には周囲の集落からの客も含めて計14-5人は来たとのことであるが、平成10年は体調がすぐれないとのことで、一件も行わなかったらしい。
(8)琴平神社例祭のケンペイシとは異なる。S・S氏は都合がつかなかった。
(9)責任役員の一人S・Sy氏の後日談による。
(10)現存する最も古い記録は明治13年(1880)のものである。
(11)これは、佐々木宏幹の、これまでプリースト=祭祀と考えられてきた沖縄の「ノロ」が「シャーマン性」を持つことが近年明らかになってきた、という指摘(佐々木、1995(1989))を意識しての表現である。

<文献>
赤坂憲雄『東北学へ A 聞き書き・最上に生きる』作品社、1996
池上良正『民間巫者信仰の研究』未來社、1999
石津照璽「シャマニズムの特質と範型−東北地方における事例」『東洋文化』46・47合併号、1969a
−「東北の巫俗採訪覚書(1)(2)(3)」『社会学研究科紀要』9・10・11号、1969b・70・71
猪子のあゆみ編さん委員会編『猪子のあゆみ』猪子町内会、1990
烏兎沼宏之『村巫女オナカマの研究』藻南文化研究所、1987
大川廣海「山形のミコ」『民間伝承』第十四巻第九号、1950
大橋英寿『沖縄シャーマニズムの社会心理学的研究』弘文堂、1998
大橋英寿・杉山幸子・安保英勇「東北の巫者・祈祷師[T][U][V][W]」『日本文化研究所研究報告』別巻第二十五集・第二十六集・第二十八集・第三十集、1988・1989・1991・1993
岡田重精「東北地方の巫女−福島県を除く−」『民族学研究』42-3、1977
小口偉一「新宗教集團の形成とその基盤−シャマニズムと祖先崇拝との複合形態−」『思想』327・328号、?
神田より子『神子の家の女たち』東京書籍、1992
−「地域研究とシャーマニズム」『民俗宗教』第5集、1995
楠正弘『庶民信仰の世界』未來社、1984(1970の『下北の宗教』改題)
櫻井徳太郎『沖縄のシャマニズム』弘文堂、1973
−『日本のシャマニズム 上・下巻』吉川弘文館、1976・1978
佐々木宏幹「祭司の誕生−神道の成立をめぐって」『宗教人類学』講談社学術文庫、1995(1989)
佐々木雄司「我国における巫者(Shaman)の研究」『精神神経学雑誌』69-5、1967
佐治靖「オシンメイサマの共同祭祀と憑霊信仰」『日本民俗学』176、1988
−「オシンメイサマのお年越−儀礼の構造と集団憑依現象−」『福島県立博物館紀要』第3号、1989
−「春を告げる巫女の語り−口寄せ巫女の村祈祷−」『日本民俗学』204、1995
佐藤光民『温海町の民俗 温海町史別冊』温海町、1988
鈴木清訓「山形県内陸地方の民間巫女オナカマについて」『日本民俗学』199、1994
高松敬吉『巫俗と他界観の民俗学的研究』法政大学出版局、1993
戸川安章「庄内地方における巫女と「おこない」神」所収『新版・出羽三山修験道の研究』佼成出版社、1986(1954)
中道等「イタコ・おかみん・ぼさま」『民族』第貳巻第參號、1926
中山太郎『増補復刊 日本巫女史』パルトス社、1984(1930)
原田敏明「部落祭祀におけるシャマニズムの傾向」『民族学研究』、14-1、1949
平山眞「民間巫女と村落祭祀−宮城県唐桑町の事例から見た巫女の公的性格−」『東洋大学大学院社会学研究科紀要』第32集、1996a
−「シャーマニズムと女性を巡る考察」『白山人類学』4号、1996b
−「修験道と巫俗の交錯−山形県村山地方の事例より−」『東洋大学大学院社会学研究科紀要』第35集、1999
文化庁文化財保護部編『民俗資料選集14 巫女の習俗T−岩手県−』(財)国土地理協会、1985
−『民俗資料選集15 巫女の習俗U−青森県−』(財)国土地理協会、1986
−『民俗資料選集20 巫女の習俗V−福島県−』(財)国土地理協会、1992
−『民俗資料選集21 巫女の習俗W−秋田県−』(財)国土地理協会、1993
堀一郎「口寄巫女について」『民間伝承』第十四巻第九号、1950
−『民間信仰』岩波全書、1951
三川町『三川町の概要』平成10年度版、三川町、1998
宮古市教育委員会編『神子シンポジウム報告書』宮古市、1997
柳田國男「「イタカ」及び「サンカ」」所収『柳田國男全集 4』ちくま文庫 、1989(1911-2)
−「巫女考」所収『柳田國男全集 11』ちくま文庫 、1990(1913)
−『妹の力』所収『柳田國男全集 11』ちくま文庫、1990(1940)

<ご質問・ご意見等はmackharry@ma3.justnet.ne.jpまでお願い致します。ご謹聴感謝します。>

<以下、発表を終えての反省など。>

レジュメをみながらでなければ恐らく何を話しているのかさっぱり分からないだろうな、と思いつつ50部も刷ってしまったのだが、会場では研究大会では普通するもんだと思っていた「聴講者全員に係のものが配る」、ということをしてもらえず、「手を抜いてやがるな、やってられん。」などとブツブツぼやきつつ報告(ああ、また喧嘩を売ってしまった。)。ただ、今回は学会での報告では<珍しい>(これまでの経験では、ちゃんと質問時間を余らせているのに、質問なし、というのがほとんどでした。)本質的なコメントがなされたことが収穫であった。(池上様、ありがとうございます。)池上氏の問題点の指摘は、私が記憶している限りでは、「<はじめに>、で行っている問題設定はよく分かるのだが、結局それについての解答が与えられていない。講集団が形成されていてその祭祀にミコサンが関与する、そうしたことが行われる背景になっている村落内での権力構造みたいなものを捉える必要があるのではないか。」ということだったと思う。大会プログラム記載の発表要旨に「村落構造論・村落祭祀論の視点から考察を加える」なんてことを書いてしまい、今回配ったレジュメでも「分類学に拘泥せず、その先を考える。」などと偉そうなことを言ってしまっているのだが、実は今書いている博士論文で行う考察のメインの部分で、P.クラストルを使うか、C.ギアツを使うか、D.ゲルナーを使うか、はたまた堀一郎で押し通すか、などと思考しているうちに期日になった、というのが現実である。本音を言えば「余り性急に結論づけしてしまって博士論文が書きにくくなるのもなんだしなー…。」ということも少なからず頭にはあって、本当は最後に「<続く>」と入れたかったのだけれどそれでは余りにも失礼だと思いつつレジュメを作った次第で、尻切れトンボな報告だったことは否めないと思うけれど、上記の点に関しては来年の発表までの宿題、ということにしたいと思う。ご期待下さい。(1999/05/31)