大江健三郎著『憂い顔の童子』講談社、2002.09
『取り替え子(チェンジリング)』(講談社、2000.12)に続く、著者の分身である「長江古義人」を主人公とするどうやら連作になりつつある作品群の2冊目。
この作品は基本的にセルバンテス著『ドン・キホーテ』のパロディ。出生地である四国の山奥に戻った古義人は、あたかもドン・キホーテの如く、次から次へと矢継ぎ早に出来する事件にそれこそ「勇猛果敢」に対処し、自らも様々な出来事を巻き起こす。話の焦点は、アメリカ軍支配下にあった太平洋戦争終了直後に、あからさまに伊丹十三がそのモデルである「塙吾良」(この名前は重要。本書でも四国では結構盛んなはずの御霊信仰が重大な扱われ方をしているのだが、吾良はまさしく「ごりょう」とも読める故。)と古義人が関わったらしい「米軍基地襲撃事件」ないし「米兵殺害事件」(このご時勢に、何と過激な…。というか素晴らしい。)。一応この事件の真相解明のような作業が中心的プロットとして描かれていくのだが、結局のところそれは判然としないまま終わる。このようなことから、例によって、「3部作」になるのかも、などとふと考えてしまう人も多いことだろう。
登場人物の多くは、現実に存在する人々であろうと、一応想像できるのだが、ただ一人、実名で出てくるのが加藤典洋である。その『取り替え子』に関する評論とそれに対する古義人その他の対応が、セルバンテス著『ドン・キホーテ』の最も面白い部分であるあの「贋作」を巡る一連のメタ・フィクショナルな記述と重ね合わされて、少なくともこの小説の登場人物である古義人にはそれが文字通りの激怒の対象となったことが描かれる。まあ、大江氏自身もそこそこ怒りを覚えたのではないかと邪推する次第だが(だからこそ唯一実名なのだと思うのだけれど…。)、それをも相対化して高度なパロディに昇華させているところがさすがである。
さて、最後になるけれど、先にちょっと触れた通り御霊信仰や「神童寅吉」に関する記述、あるいは「桃太郎」や自分の書いた小説、中でも特に四国の森をテーマとするものについての記号論的分析などを見るに付け、つくづくこの作家が人類学(特に構造主義人類学)や民俗学に造詣が深いことが計り知れるのだけれど、本作には大江氏が大学生時代に人類学のテクストをふとしたことから手にとって読む、というエピソードが描かれていて、「ふむふむ…。」、となった次第である(だから何だ、と言われると困るのだが…。)。以上。(2003/06/15)