宮台真司著『終わりなき日常を生きろ』ちくま文庫、1998(1995.7)
サブタイトルは「オウム完全克服マニュアル」。「完全」とか「マニュアル」という言葉には引っかかりを感じてしまうのだが、それは前者が宮台の言う「…何が良いのか悪いのかが、よく分からなくなってくる。そういう混濁した世界のなかで<相対的>に問題なく生きる知恵が、いま必要とされているのではないか。」(p.185。<>は私が挿入した。)というような、それこそ「相対的」な世の中を「相対的」なものと認識しつつ「相対的」に生きていくべき、という主張とは相容れないような気がすること、そしてまた、後者については確かに新しい「コミュニケーション・スキル」の模索、という形で「マニュアル」構築の可能性が示唆されてはいるものの、結局のところその「マニュアル」自体が記載されていないのは何故なのか、という疑問を抱かずにはおれないということから来るものである。まあ、サブタイトルは出版者が勝手に付け加えたものかも知れないし(竹本健治の小説におけるように。ハハハ…。)、「完全克服マニュアル」なんてものが実際に提示されていたりしたら、それはそれで気持ちが悪いので、それを示さなかった本書における宮台の姿勢自体が悪いわけではない事を断っておく必要があろう。それはともかくとして、本書の記述のなされ方は、宮台が「文庫版あとがき」で、「…社会学的な分析が、オーソドックスな学問的方法を用いたものであった分、妥当性も大きかったのだろう。」と述べているようなものでは決してない事を述べておきたい。ここで言う「オーソドックスな学問的方法」とは恐らく、「社会学という、すでに伝統の蓄積がある学問」(以上、p.197)を指すのであろうと思うのだが、私個人としては「社会学」は「厳密」な「実証性」を重んじる学問であったはず、と考えており、どうも付け焼き刃的な印象の濃い本書の記述なり分析なりにそういうものを感じることは出来なかったのである。具体的には、例えばオウム信者がS.レムやJ.G.バラードらの「60年代SF」を読んでいない事は、「厳密」な事実として、例えば「統計的」に「実証」出来るのだろうか、これは単に宮台の印象論に過ぎないのではないか、というような疑問が沸々と湧いてくるのである。と、ここまで書いてきたが、そもそもまじめに論評する必要がないように思うし、そんなことは作者も望んでいないだろう(「文庫版あとがき」中の「予言」的中云々なんてのは、間違いなく麻原教祖の発言のパロディだよね。この辺は結構笑えました。)本書をまじめに論評するのも面倒くさくなってきたので、この辺でやや唐突に「終わり」にしたいと思う。(1998/05/17)