赤坂憲雄著『山野河海まんだら−東北から民俗誌を織る−』筑摩書房、1999.4

 
赤坂憲雄の最新作。『山形新聞』に1996年4月から1998年4月にかけ足かけ2年連載された「山形まんだらを織る」を単行本化したものである。タイトルにある「まんだら」という語は勿論、内藤正敏や本書にも登場する千歳栄が山形県を見立てた言葉である。本書が第一部「山野の章」、第二部「河海の章」に分けられていて、さらに両部が余りシステマティックでない形、要はバラバラかつ飛び飛びな形で県内の各集落の記述を行う各章に分節されているところなどを見ると、「曼茶羅って元々はもっと精密なロジックを持ったものではないのか?」という気もしてくるのだけれど、どうだろうか。赤坂氏の頭の中にはそういうロジックがあるのか、はたまたそういうロジックは雑念なのだという悟りの境地に入ってしまわれたのか、など、色々と考えさせられる。 なお、本書は442頁によると赤坂氏の「最初の民俗誌」なのだそうで、11頁辺りでは「これまでの民俗誌」とはスタイル・目的その他において一線を画したものであることが述べられていて、ここで言う「これまでの民俗誌」とはどうやら柳田國男自身のもの、及び柳田の「稲作中心史観」に基づいた彼の後継者達による「秩序だった事項の配列」からなっているものらしいのだけれど、私自身としては、例えば柳田編による『山村生活の研究』や『海村生活の研究』はあっても『農村生活の研究』は結局作られなかったこと、また、和歌森太郎編による膨大な数の民俗誌は必ずしも農村だけを特別に扱っていたわけでもなく、むしろ海村に重点が置かれていたこと、更には千葉徳爾による膨大な狩猟伝承研究みたいなものを、あたかも存在しないかのように書いてしまうのもなんだろうと思うし、410頁で褒め称えられている佐藤光民氏(私もお世話になってます。またお会いしましょう。)の『温海町の民俗』がまさに「秩序だった事項の配列」によるものであることについてとか、宮本常一氏などによる「秩序だった事項の配列」からはほど遠い民俗誌も数多存在することに言及することをかなり意図的に避けているような気がするのだがいかがなものだろうか。
以上のように民俗誌云々については言いたいことはたくさんあるのだけれど、そういうことはさておいて、本書はとりあえず、具体的な誰々がどういうことをしてきたのか、ということを可能な限り抽象化を避けて丹念に書き連ねたことにより、山形県の現在というものをこのくらいの長さのテクスト及びモノクロ写真で行える限界まで(あくまでも限界まで。)リアリスティックに描き出すことには成功しているように思う。記述の大半は各地の人々の稲作以外の生業(なりわい)に関するものであって、偏りがあることは否めないのだけれど、これも赤坂氏の「稲作中心史観」批判を行いたい、という意図を反映したものなのだから致し方ないか、とも思う。但し、周知の通り山形県は現在日本有数の穀倉地であることも忘れてはならないのである。近年の「稲作中心史観」批判を行いたがる人達に共通する、縄文文化の変な称揚だの、縄文文化は自然との共生の文化であり、それが東北地方には濃厚に残存していて、それ故に東北の人々は自然との共生を常に考えてきたし、現在もそうだ云々などという言説から赤坂氏はやや距離を置いていると思うのだけれど、同氏が立ち上げた「東北学研究所」の立ち上げパーティ(4月半ばくらいだったか?)を山形テレビかどこかのニュースで報じていたが、同日には縄文主義者・梅原猛が講演を行ったらしく、ちょっとこの研究所の先行きに関して不安を感じてしまった次第である。縄文主義者達には、弥生文化なり水稲稲作なりが日本列島に住む人々にとって極めて大きな意味を持ってきたことは間違いないことであって、それを無視して良いとは到底思えないことや、赤坂氏も述べている通り(217頁)、縄文文化が必ずしも自然との共生を重んじるものであったのかどうかについては疑問が出されていることも改めて考えて頂きたいものである。
話が横道に逸れている。最後になるが、以前『東北学へ B』の書評をどこかの雑誌に載せると宣言してしまったが、これは撤回して、近々本書の書評を行いたいと思う。そこではやはり本書の中身というよりはその文体あるいは記述の形式に注視しつつ、そもそも民俗誌とは何であったのかについて検討し、更には赤坂氏の提唱する「東北学」なるものについて考えてみたいと思う。御期待の程。(1999/06/07)