宮崎駿監督作品 『千と千尋の神隠し』
「とうとう観てしまいました。」、という感じなのだけれど、本作品はご存じの通り日本国内での興行成績記録を現在も更新中の宮崎駿+スタジオジブリによる劇場用アニメーション映画である。先頃第52回ベルリン国際映画祭で金熊賞(=作品賞。ドイツ語だとGoldene Bar賞。aはウムラウト。)を受賞したのも周知のことだけれど、実は前の年がPatrice Chereau監督によるフランス映画Intimacy(未見。取り敢えず、その濃厚な性描写が話題となった作品です。)、その前の年がPaul Thomas Anderson監督によるアメリカ映画Magnoliaと、結構曲者かつ外国製作品の評価が高いように思う同映画祭のこと、宮崎氏によるこの作品の受賞もそういう流れなんだろうななどと思い、かつまたそのドイツでの高い評価の裏には濃厚なオリエンタリズムが存在するのではないかと邪推するのだが、まあ詰まらないやっかみはやめておいて作品評に入ろう。
とは言え、大して述べることがない。ついでに言うと時間もない。この作品の物語自体は極めて単純で、主人公である10歳の少女・千尋が、ひょんなことからその両親とともに「異界」(公式には「不思議の町」と称されるようだ。)へと迷い込み、そこで魔法によって豚に変えられてしまった両親を元に戻し、かつまた元の日常世界に戻るために奮闘し、それに成功するまでを描く。端的に言って、同監督の前作にあたる『もののけ姫』だの、同監督がそれと並行して作り上げたコミック『風の谷のナウシカ』などから比べると、「三歩後退」という印象を強く受けた次第。そう、それらの作品で掘り下げられ、しかもまだ掘り下げられるべき余地があるように思う「人間・自然・テクノロジー」という三大モティーフの複雑な相互関係への言及が、微塵もみられなくなっているのである。
そうそう、本作品のテーマは極めて明瞭かつこれまた単純で、要するに「覚悟さえ決めれば人生何とかなるよ。」(菅原文太の声でお読みください。)というもの。そんなことは結構長いこと生きてきた私などには言われなくても分かっているわけで、「うーん、何を今更…。」と思うと同時にまた、この長引く不況および就職氷河期(特に女性には深刻。)において行く宛のなかなか定まらない人々に一片の激励を込めたということになるのだろうこの作品が、圧倒的な支持を受けたことも何となく理解できたのであった。
以下、大概のことは他の人が言ってしまっているはずなのでごく私的な読みを記しておこう。本作品の中心舞台である、働かないものはそこにいることを許されない、「湯屋」と呼ばれる神々が集うお風呂屋さん兼飲食店を実効支配する魔女・湯婆婆は、たぶん誰かがそのように読解したはずの『オズの魔法使い』に出てくるその名もずばり「オズの魔法使い」というよりはむしろ、W.シェイクスピアの戯曲『テンペスト』に出てくる魔法使いである「プロスペロー」みたいだな、と思った次第。それはすなわち同戯曲に登場する「キャリバン」がそれこそその名前をプロスペローから貰うことによってその支配下に置かれる、というシチュエーションが、千尋を含め「湯屋」で強制労働させられているモノたちが全て自らの固有名を奪われ新たな名前を与えられることでその支配力を行使されている状況と重なるからである。
この点については深読みが可能で、以下夢を壊すことになりかねない記述なので「お子様」には読んでほしくないと断っておくけれど、要するに10歳の少女がお風呂屋さんで新しい名前を与えられて強制労働させられるという<物凄い>舞台設定と、この作品を通底して流れる拝金主義への徹底的な懐疑および否定とが相俟って、結局のところこの映画は今日問題になっている児童買売春へのかなり遠回しな、しかも痛烈極まりない批判なのかも、などということさえ考えたのであった。ついでに言うとそういう泥沼にはまり込んだ児童たちも含めあまた存在する悲惨な状況に追い込まれたプロレタリアート達は、本作品の千尋のように自力で状況を打破することなどは不可能なわけで、本当に上記のようなことを訴えたいのであればその点において宮崎監督は「甘い」とも言い得るのだけれど、本作品は日本国という何とも暢気な社会を舞台にしていて、そこでの主張はあくまでも「勇気と覚悟を持つことで状況を打開し得るかも知れないその一抹の可能性にかけるべし。」、ということなのだから、まあ、それはそれでいいでしょう。
以下、蛇足。同映画の公式サイトをみて知ったのだが、実は頭の方に「おしらさま」なんていう神とも妖怪ともつかぬモノが出てきていて、うーむ、さすがはそもそも「神隠し」などという柳田民俗学的モティーフをふんだんにまぶしたこの作品、誠に抜け目がありません、という感じなのであった。何しろこの「おしらさま」、どう見ても象みたいな姿をしていて、そう言えば東北日本などで広域において信仰対象となっている「オシラサマ」の起源は歓喜天=ガネーシャと呼ばれる、ヒンドゥ教および仏教において信仰されている象の姿をした神なのだという説明をするインフォーマントや研究者がいたな、などということにふと思い至ったのであった。以上。(2002/03/15)