Bryan Sykes著 大野晶子訳『イヴの七人の娘たち』ソニー・マガジンズ、2001(2001)
オックスフォード大学で人類遺伝学を教えているBryan Sykes氏による、画期的とも言える内容を含む人類遺伝学入門書である。内容は簡明で、あくまでも一般向けなのだが、色々な意味で余りにもインパクトのある書物なので、取り敢えずの一読をお薦めする。
今日生きている人間その他の生き物はもとより、化石や「アイスマン」のような過去の遺物に関してもDNA解析がかなりの精度で行なえるようになった20世紀終盤の遺伝学だけれど、Bryan Sykes氏が成し遂げた最大の業績は、何といってもミトコンドリアDNAを基にした現世人類の「母系祖先」を復元する、という作業である。
今日では瀬名秀明の小説(『パラサイト・イヴ』ですね。)などによって広く知られる事柄になったけれど、ミトコンドリアDNAによって何で母系祖先が復元可能かというと、今日地球上に数多く存在する生物に酸素呼吸を可能にした共生体とも見なされているミトコンドリアという「もの」が、女性が作り出す生殖細胞である卵子を通じてその子ども達に引き継がれる、という事情による。反対に精子側のミトコンドリアは卵子内には到達できないため、男性側が持つミトコンドリアDNAは子ども達に引き継がれない、ということである。
それでもって、Sykes氏が明らかにしてしまったのは、現在ヨーロッパに住むヨーロッパ系の人々から辿れる母系祖先が、1万-4万5千年ほど前に実際に生きていた7人の女性に限られるらしい、という事実である。「ヨーロッパ系」というカテゴリーが何を意味するのか?、とか、全員のミトコンドリアDNAを調べたのか?、とかいう疑問も抱いたのだが、その辺は多分解消されていることだから措くとしよう。その後Sykes氏は研究対象を全世界に拡げ、この本が日本語に翻訳された段階では35人の女性を、我々人類の母系祖先として同定するに至っているそうだ。なんて画期的な研究なのだろう。
さてさて、本書に示された、ミトコンドリアDNA研究がもたらした副産物とでも言うべきものに触れておこう。例えば島田荘司のある小説で扱われていた所謂「アナスタシア皇女問題」だけれど、その小説にも登場する「アナ・アンダーソン」は偽物、という鑑定結果が出てしまったとのこと。これは、確定でしょう。また、この人が開設したウェブ・サイトにおいては、我々一人一人が、どの女性の母系子孫なのかを調べてくれるようになっているのだけれど、結構オファーがある模様で、これはいかに人々が自分のルーツにこだわっているかを如実に示す事柄ではなかろうか、と考えた。私のような者には、どうでも良いことに思われるのだが、世間の人々はそうでもないらしい。いずれにせよ、大変興味深い事柄ではある。
なお、第15章から第21章までの、「七人の娘」がどんな生活を送っていたかを想像しつつ記述した部分は本書が持つ唯一の、そして最大の欠点ではないかと思う。他の部分が科学的厳密性を保って書かれたノン・フィクションであることもあり、いっそのことそれで一貫した方が良かったのではないかと考える。一応前の章に、次章からの記述は「想像上の生活」であることがさりげなく示されているのだけれど、こういう文章は見落とされる可能性が強くて、ここに書かれた事柄が事実化されてしまう危険性があるように思うのだ。例えば、自分の祖先が第17章に記述された第三の娘である、ということが伝えられた場合、そこしか読まない人もいることであるし…(大いにありがちだと思うのだが…。)。
以上、誠な画期的な事柄を簡潔かつ明快に述べた極めて優れた書物の、やや長めの紹介であった。(2003/06/02)