森博嗣著『夏のレプリカ Replaceable Summer』講談社ノベルス、1998.1
今後は、講談社ノベルス及びその他の類似形態の書物群は新書扱いとする。ところで、本書は既に紹介した『幻惑の死と使途』と同時に文庫化された。森作品及び本欄の(笑い)熱心な読者は、本欄の書評・紹介において同シリーズ中の『笑わない数学者 Mathematical Goodbye』(講談社ノベルス、1996.9)及び『封印再度 Who Inside』(講談社ノベルス、1997.4)の2作品が抜け落ちていることにお気付きの筈だが(そんな人がいるのかいな?)、これは私がこれらの書物を古書店で入手した時には既に旧著扱いとすべき時期になっていたためである。そんなことはどうでもいいことなので先に進む。
本作が『幻惑の…』と一緒に文庫化されたのは、前にも述べた通り同著が前著の偶数章に当たるためである。両者が独立した作品であることも既に述べた通り。付け加えると、両者の独立具合は著しいもので、前作が奇術師殺しとその死体消失を巡る大掛かりなトリックを駆使した本格ミステリの体裁を持つものであるのに対し、本作は誘拐及び密室情況での人間消失を巡る本格ミステリというよりは寧ろサイコ・ドラマとでも言うべきものなっている。いや、それどころではなく、本書とこれに続く『今はもうない』(次項参照)は一連の犀川・萌絵シリーズの中でも異彩を放っている。これについては後述しよう。

最後になるが、本書のラストは全くの〈偶然〉の出来事なのだけれど、奇蹟の〈奇〉を各章のタイトルに冠した前作が、基本的に犯人の意志通りに全てのことが運ぶ言ってみれば必然性をその底流に持つとすれば、偶然の〈偶〉を各章のタイトルに冠した本作において、一連の出来事は基本的に偶然性・偶発性・非意図性を孕みながら展開する。奇蹟と偶然はどちらが起きやすいか、と言えばその答えは後者なのであって、この辺りの捻れ具合が個人的には面白かった。

森博嗣著『今はもうない Switch Back』講談社ノベルス、1998.4
本シリーズ中最も異彩を放つ作品。それはまず第一に、本書が基本的には、〈嵐の山荘を舞台にした密室殺人事件〉という殆ど禁じ手とも言える物凄くオーソドックスかつ凡庸な舞台設定を持つ、という点にある。もう一点はその記述スタイルであり、本書においてその物語は「笹木」という人物の回想録という形で進行する。このことが第一に挙げた故意に装われた凡庸さを補う機能を果たすのだが、それについてはネタバラシになりかねないので詳述しないことにする。尚、各章の間に挟まれた犀川・萌絵の漫才もなかなかに楽しめる。
森博嗣著『数奇にして模型 Numerical Model』講談社ノベルス、1998.7
長編第9作であり、次作への布石とも言える作品。前2作とは打って変って、「那古野市」内の大学界隈を舞台にした、エキセントリックな人物達が跳梁跋扈するこの人ならではの作風に戻る。エキセントリックな人物達とは、ここでは模型マニア、特に美少女フィギュア・マニアその他のこと。まさにオタクネタ満載。森助教授もそうしたことに手を染めているのだろうかと邪推する。

それは兎も角、ここではそうした人々を「エキセントリックな」と解してしまうメンタリティをこそ問題にしなければならないだろう(それは私及び前記の人々を明らかにエキセントリックな人物として描いている森氏にも共通するものだ。)。それは、本書では、〈正常〉と〈異常〉の境界を巡る思索がなされているからだ。美少女フィギュア・マニアから(とは言え、完成品を買ってくる人達から、ガレージ・キットの原盤を自分で起こす人達まで、と極めて幅広い。)、マーダー・プロップ・コンストラクション・キット・マニア(普通はこんなものがあること自体を知らない。簡単に言えば死体の模型です。これも前者同様、多様なのでしょう。)を経て、更には実際の死体を切り刻むに至る系列のどこに、その線引きを行ない得るのか。このことと、そもそも人間の個体としての境界線はどこにあるのか、という極めて深遠なテーマとが交互に問われることにより、本作に単なるミステリを超えた意味付けを与えている。勿論、死体切断を巡ってなされる犀川・萌絵による思考・対話に、京極夏彦作品の影響を見るのは私一人ではないだろう。

尚、本作において殆どコスプレ・ドールと化している西之園萌絵だが、本書には愛知県警本部のサーヴァ内に秘密裏に設けられた西之園萌絵ファンクラブのホームページ云々、という記述がある(138頁)。さすがに愛知県警本部にはないとしても、多分既に似たようなものは作られているのだろうと思う。「西之園萌絵」で検索すれば出てきそうだが、怖いので止めておく。考えてみれば、この欄も引っかかるんだろうけれど…。

森博嗣著『有限と微小のパン The Perfect Outsider』講談社ノベルス、1998.10
『すべてがFになる』から始まる本シリーズもはや10作目。第1作で登場した天才プログラマ・真賀田四季(まがた・しき)が再登場し、一連の事件を演出する。その事件とは、西之園萌絵ら理系3人組が訪れた長崎県内にあるテーマ・パーク「ユーロパーク」(萌絵が大株主である「ナノクラフト社」が経営する、という設定。このテーマ・パークのモデルは誰でも知っている。まだ存在しているのだろうか?)を舞台にした密室連続殺人事件。『幻惑の死と使途』のところでも軽く触れたのだが、同著から本作に至るまでの5長編の解決法はそれまでの5作に比べるとかなり見劣りする(『幻惑の…』はイイ線行っているのだがこの犯人はどう考えても〈とってつけたような〉人物である。)。詳しくは述べられないが、やはり、犯人が苦労して作り上げたトリックと、そこにある程度の偶発的な要素が加わった事象について、探偵役たる犀川・萌絵が真っ向から取り組む、というのが一読者としての要望。私見ではどうも、森氏は後半5冊において正統なパズラを構築することを放棄しているように思う。正統パズラである必然性は特にないにせよ、5冊も続けられると、やや食傷してしまうのである。
もう一つ気になったのは、真賀田四季が何故に萌絵や犀川に興味を抱き、一連の事件を演出してみせなければならないのかが、私にも「よく、わからない」(584頁)ということ。但し、これは今後の作品で少しずつ明らかにされていくのかも知れない。期待しよう。

以下は蛇足。既に『まどろみ消去』の中の一編においてRPGへの言及を行なっていた、否、それどころかRPGを偽装した作品を書いていた同著者であるが、本作でも「ナノクラフト社」が開発した『クライテリオン』なるRPGが事件の鍵を握る重要なアイテムとして登場する。この、作品内RPGである『クライテリオン』のエンディングは、〈僧侶から一片のパンを与えられる〉、という誠にあっけないもの。(これは、例えば『ドラゴン・クエスト7』において、艱難辛苦の後に主人公に与えられるのが結局2片の「アンチョビ・サンド」のみ、という事実に通底する。DQ7の原作者・堀井雄二は絶対に本書を意識している。気のせいかな?)本作を読み終えるにあたり、我々は著者の誘導に従って、〈何故にこれ迄このシリーズを読んできたのか?〉という懐疑を行なうことになるのだが(ならない人もいるんだろうが…。)、結局のところ50-60時間を費やして得られるのは『クライテリオン』のエンディングのように、いやそれ以上にあっけないものかも知れない〈読書をした〉、という記憶のみ。それでいいのだ。人は記憶によってのみ生きるのだから。(2000/12/25)

赤坂憲雄著『東西/南北考 ―いくつもの日本へ―』岩波新書、2000.11
最近私は赤坂憲雄による一連の「民俗学批判」を批判し続けてきたが、本書の叙述については全く異論はない。即ち、赤坂のここしばらくの著書においては、民俗学は後期柳田國男の志向した「ひとつの日本」というヴィジョンへの呪縛から逃れておらず、自分こそがそれを断ち切り「いくつもの日本」を掲げた最初の民俗学者であるかのような書き方をしていた。ところが、本書ではごく正直に、いち早く「いくつもの日本」を志向した著述家として、宮本常一、網野善彦、高取正男らの名が挙げられ、それぞれの論述を丁寧に読み解きつつ、「いくつもの日本」を志向する民俗学のこれまでの議論と、今後発展させるべき論点を端的にまとめている。さよう。本書は今日の日本民俗学の到達点を示す入門書として、非常に優れたものなのである。
残る問題は、「いくつもの日本」という視座の持ちようは基本的に正しいものであると考えるけれど、それを語るために何故に民俗学という方法論が必要なのか、ということになるだろうか。別に、人類学でも考古学でも、或いは歴史学でも良いように思うのだが。もう一つ、赤坂の提唱する「東北学」や、本書記載の著者プロフィールにある同氏が専攻するという「東北文化論」なるものは、決して一つの地理的な意味での地域としての「東北」について考える、というものではないことは理解できるのだが、それならば「東北」という語は使用しないか、或いは括弧付きで用いるように心掛けるべきではないかと思う。それは、このまま行くと読者達が誤読によって到達してしまいそうな地域ナショナリズム(所謂お国自慢など)に堕することを避けるために、必要不可欠な事柄であると考える。
井上治代著『墓をめぐる家族論 誰と入るか、誰が守るか』平凡社新書、2000.12
井上治代氏は、本書において近年誠に顕著になってきた葬制・墓制の変化(これについては以下の記述を参照のこと。)から、今日家族の在り方や人々の持つ死生観に何が起きているのかを読み解こうとする。多くのジャーナリストがそれで済ましてしまっているような印象論ではなく(今朝(02/11)の新聞紙上における昨日ハワイ沖で起きた事故に関する自称「識者」達の見解は毎度のことながら誠に愚かしいものである。そう、あたかも自分で見てきたかのように語るな、と言いたい。彼等は恥ずかしくないのだろうか?)、可能な限り自分で確かめた事実に基づいて論述を進めていく同氏の姿勢は、全く正しい。
ところで、井上氏の基本スタイルは、墓を巡って主として近年において起こっている諸現象から、新しい切り口の家族論を導き出す、というものな筈であるし、そうしてこそ家族社会学なり何なりにインパクトを与え得るものと考える。しかしながら、実際に本書で記述がなされているのは、家族論一般で述べられている〈直系家族=イエ→夫婦家族=核家族→家族成員の個人化〉という近年の変化に伴って、イエの墓(「何々家先祖代々」その他)という制度が崩れ、「継承者を必要としない墓」へと移行しつつある、という至極当り前の事に過ぎない。家族社会学や宗教社会学が学問的営為として正当性や妥当性を発揮するためには、通俗家族論や通俗先祖祭祀論を、出来ればどこかの調査機関その他の行なっているような杜撰なものではなく(本書でも利用されてしまっている。)、自らの足で集めた綿密なデータ収集その他によって乗り越える事が必要だと考えるのだが、これは今後の私自身の課題でもある。
尚、最終章辺りで、家族が個人の集合体と化した、という家族論の中の議論を離れて、個人化一般の方に一歩はみ出してしまっているのも、問題かと思う。それを言い出すと、〈個人とは何か〉、という途方もなく難しい議論が必要になってくる。〈個人〉もまた、こちらについては井上氏も言及しているイエや近代家族などと同様に近代の発明によるものである、という指摘すら存在する、と言うよりは既に自明の事柄であることも付け加えておきたい。
もう一点、これは主として社会学の人達がやっている葬墓制論その他の特徴なのだけれど、時系列的に社会変動・変容を語ることは必要なことでもありかつ妥当性を持つものであるにせよ、日本列島に住む人々がとる例えば家族形態が、一律に直系家族から夫婦家族に移行してきたわけではないことを明記しておきたい。端的に言えば、地域性を無視して日本人・日本社会一般を語ってしまうことには何度も言っているように問題があるのだ(この点については、拙稿 「日本における祖先祭祀研究の再検討」 を参照のこと。)。(2001/02/11)
小野不由美著『黒祠の島』祥伝社、2001.2
傑作ホラー『屍鬼』(新潮社、1998)から2年余りを経て放つ著者初の本格ミステリである。舞台は本格ミステリの王道である隔絶された孤島・「夜叉島」。明治政府の宗教政策から外れた国家乃至神社神道に属さない「神霊神社」や、そこに祀られる御神像・「馬頭(めず)夜叉」を巡って、横溝正史→京極夏彦という系譜に連なるかの如きおどろおどろしい連続殺人事件が繰り広げられる。本作の目玉である政治的・宗教的両面での権力の中心的存在である「神領(じんりょう)」家を筆頭に形成された同島の地域コミュニティにおける社会構造や世界観の描写・構築は、前作『屍鬼』や麻耶雄嵩の『鴉』(幻冬舎、1999。私見では、本作品はこの同じ京大推理小説研出身のこの作家の著作に余りにも酷似しているようにも思う。欠点とは言えない迄も、もう一工夫なり一ひねりが欲しかったところ。)と同様に豊富な民俗学の知識を存分に生かした誠に優れたものである。以上、紹介まで。(2001/03/13)