霧舎巧著『名探偵はもういない』講談社文庫、2009.04(2002)

恐らくは同じ作者による「あかずの扉」シリーズの外伝的作品ということになるのだろう。ある登場人物の名字がこの作品と被るのだけれど、二人は親子、あるいは兄弟とでもいった関係だろうか?そのあたりの情報は本書には全く書かれていないのだが、非常に気になるところ。それは兎も角、と。
さてさて、犯罪学者の木岬研吾とその義弟の敬二が、雪崩によりあるペンションに泊まることを余儀なくされるところから物語は始まる。所謂「吹雪の山荘」と化したペンションを舞台に、連続殺人と覚しき事件が勃発し、居合わせた人々は事件解決に向けて奔走するのだが、というお話。
登場人物による推理合戦、ミス・ディレクション、読者への挑戦状、足跡、アリバイ、遺書、どんでん返し、等々、本格ミステリに不可欠な要素を余すところ無いような感じで満載している。確かに、全てが古典的な手法、には違いないのだが、それをこの作家流に上手い具合にアレンジし直し息を吹き込み直すことにより、本書に21世紀のミステリ作品としての存在意義を与え得たのではないか、と思う。
なお、この作品には続編『名探偵はどこにいる』(講談社)があり、これが2006年刊。今のところノベルス版も出ていないのだが、そろそろ刊行ではないか、と思っている。また、2001年刊の第4弾『マリオネット園』(今は講談社文庫で読めます。)以降作品が出ていない「あかずの扉」シリーズだけれど、あのシリーズ、『マリオネット園』で完結とはとても思えないので、再開を心待ちにしているのである。以上。(2009/06/28)

佐藤亜紀著『雲雀』文春文庫、2007.05(2004)

2002年発表の芸術選奨新人賞受賞作『天使』(現在は文春文庫で読めます。)の姉妹編という形で、2004年に単行本が出ていた連作短編集の文庫化。『天使』では、20世紀初頭のヨーロッパを舞台として、突出した「能力」(下記参照)を持つ異能者ジェルジュの半生が描かれているが、こちらでは彼を取り巻く人々を主役とした言わば外伝的な物語と、『天使』では語られていないジェルジュの物語が綴られる。
上で書いている「能力」とは要するにテレパシイやサイコキネシスと覚しき能力のことであり、ジェルジュなどはそうしたものを所有する超能力者であると考えて良いのだけれど、この小説群では「感覚」と表記される。そういうことなどをもって、本書をSFのようでもあり、ファンタジィでもあり、耽美なドイツ・オーストリア風の幻想文学でもあり、笠井潔や夢枕獏が書くような血なまぐさいヴァイオレンス小説でもあり、そしてまた戦争ものでもあり、などと書いてしまうとこの小説が持つテイストが上手く表現出来ていないことになる。
確かにそうした要素がふんだんに散りばめられているのだけれど、佐藤亜紀は舵をエンターテインメントの方向へは向けることなく、あくまでも純文学的な筆致で書き紡いでいく。文章のそこここから立ちのぼる芳しい文学の匂いを、是非とも感じ取っていただきたいと思う。以上。(2009/07/01)

瀬名秀明著『第九の日』光文社文庫、2008.12(2006)

長編『デカルトの密室』(新潮社、2005.08。現在は新潮文庫に入ってます。)と共に「ケンイチ&レナ&ユウイチ」もの連作を形成する中短編集である。元々は2006年に刊行されていた単行本を文庫化したもの、となる。
冒頭の作品「メンツェルのチェスプレイヤー」が2001年発表、『デカルト…』の連載が2004年から2005年、第2編「モノー博士の島」が2005年、第3編「第九の日」が2006年、そして最後の作品「決闘」は単行本に書き下ろし作品として収録されていた。
各編のタイトルをご覧になっていただければお分かりになると思うのだが、それぞれ元になっているものがある。『デカルト…』は笠井潔の『哲学者の密室』だし、「メンツェル…」についてはE.A.ポオ(Edgar Allan Poe)による同タイトルの評論="Maelzel's Chess-Player"(1836)がある。タイトルだけではなく、作品の中身にも古今東西のSF、ファンタジイ、ミステリ、純文学の傑作群がモティーフとしてうまい具合に用いられて本書に輝きを与えていたりもする。
『デカルト…』のような大長編がどこかまとまりの無さと分かり難さを体現させていたのに比べ、この作品に含まれるような規模のものだとテーマが絞り込まれていてなおかつ非常に明快になっており、更にはこの作品群の描写というのは結構サスペンスフルだったりパニックフルだったりするのだけれど、要は話のテンポが良い上に外連味たっぷり、といった具合で、大変考えさせられると同時に非常に愉しめる内容となっている。この中短編群の幾つかなどは、例えば映像化などにも適しているのではないか、などと考えた次第(特に「モノー…」と「第九…」はかなり良いと思う。押井さん出番ですよ。)。
それはそうと、この作家が今世紀に入った辺りから取り組んできた、知能とは何か、人と機械の関係はどのようになっていくのか、というSFではかねてからおなじみなテーマを巡る思考が、かなり深いところまで詰められていて、非常に感銘を受けたのである。以上。(2009/07/04)

山口雅也著『チャット隠れ鬼』光文社文庫、2008.07(2005)

ミステリ界きっての鬼っ子・山口雅也が、2004年に『週刊アスキー』誌上に連載していた長編ミステリの文庫版。かなり珍しい横書きの体裁をとっているのだが、それは中身がタイトル通りネットを介したチャットを扱っているからに他ならない。以下、かいつまんで概略を。
しがない男性中学教師の祭戸浩実(さいと・ひろみ)が、警視庁が立ち上げを画策する子供たちをネット犯罪から守るための組織=サイバー・エンジェルの候補者として勤務校の学院長から推挙されるところから物語は始まる。ネット初心者ながら始めたチャットの面白さにハマり、そこで異常性愛嗜好者と思しき人物の存在に気付き、事件の匂いを嗅ぎつけ、同僚の宇江部秀司(うえぶ・しゅうじ)とともに独自の捜査を開始。やがて事態は思わぬ方向に発展し…、というお話。
思うに、かなり極端な設定の虚構内にあるロジックを構築し、その中で起こる事件とその解決なり顛末を描くことに長けている、というかそれこそが持ち味の山口雅也が、そもそもその大部分が虚構によって成り立っているんじゃないかと思うネット・コミュニティを取り上げた、ということ自体に大きな意味があるのではないだろうか。
勿論、最初からあらかた出来上がっている世界=ネット・コミュニティとそれを取り巻く現実社会を利用するのは、『生ける屍の死』や『日本殺人事件』で行なわれたように世界そのものを一から作り上げるのとは違う。ただ、違うのだからこそ、ネット・コミュニティの持つ「虚構性」がより鮮明に浮かび上がるわけで、そういう点で本書は結構鋭い社会批評になっているのではないかと考えた次第である。以上。(2009/07/09)

井上夢人著『the TEAM ザ・チーム』集英社文庫、2009.01(2006)

ソロ・デビュウ以来、一毎作にことごとく作風を変えてきた井上夢人が2006年に刊行した連作短編集の文庫化である。この人の書くものは間違いなく面白いのだけれど、これもまた、期待に違わぬ見事なエンターテインメント作品に仕上がっている。
TV番組にコーナを持つ盲目の人気霊能者・能城あや子は、どんな悩みもたちどころに解消、また、その問題の根本にあるものまでをもズバリと言い当てて見せる大変な能力の持ち主。しかし、種を明かせばそれらは全て彼女の仲間である調査班の力によるものなのだった、という設定が最初に明かされ、各編では彼らが扱う、あるいは関わることになるさまざまな事件が描かれていく。タイトルにある「チーム」というのは、彼女を含めた4人組のこと、となる。
自ら霊の存在をはっきりと否定する豪放かつ磊落な感じの能城あや子にしても、それを支える裏方の一人である女性ハッカー藍沢悠美にしても、調査の実働部隊というか単身で家宅侵入して情報集めをする草壁賢一にしても、「チーム」のブレインにしてまとめ役の鳴滝昇治にしても、実にキャラが立っているというか、それぞれが絶妙な役割と性格を与えられ、かつまた動きを付与されている。基本的には霊能者の下に持ち込まれる霊がらみと思しき事件が扱われるので、どことなく京極夏彦の人気シリーズである一連の『巷説百物語』ものを想起してしまったところもある。
スピリチュアル・ムーヴメントやオカルト的なものに対する批判、ととるべきではなく、あくまでもエンターテインメント作品として楽しまれるべきではないかと思う。名うてのストーリィ・テラーによる、巧みなプロット構成をとくとご堪能頂きたい。以上。(2009/07/22)

今野敏著『怪物が街にやってくる』朝日文庫、2009.06(1985)

1978年に発表されたこの作家のデビュウ作である問題小説新人賞受賞作「怪物が街にやってくる」を巻頭に置く短編集である。今でこそ著名な作家の一人となった今野敏だけれど、このデビュウ作が本書に収められた1978年から1980年にかけて発表された各編とともに単行本化に収録されたのは1985年の話であり、新書化されたのがその3年後。しかし、どちらも絶版となり、その後文庫化もされずに約20年間ほぼ放置状態であったのだった。ようやく日の目を、という感じなのだが、以下その中身について簡単に紹介を。と言っても、ある理由があって表題作についてしか書かない。
「怪物」、というのはジャズ界の、という意味。有名なトリオをモデルとする「上杉京輔トリオ」を脱退し自らカルテットを結成したドラマーの武田巌男が主人公。ジャズ界における二人の「怪物」が再び顔を揃えるステージが近づく中、武田の身辺ではおかしなことが起こり始め、やがて話はとんでもない方向に進んでいく、というもの。
基本的には連作短編集という体裁なので、各編の登場人物は重複するし、物語としても連続性を持っている、ということだけ述べておきたい。そのとんでもない展開が余りにも素晴らしいので、そこのところを是非味わって欲しい、と思う。ごくごく個人的には、1970年代というのは、こういう時代だったのだな、という感慨を抱いたのであった。以上。(2009/07/25)

恩田陸著『ネクロポリス』朝日文庫、2009.01(2005)

宮城県出身の作家・恩田陸が『小説トリッパー』に連載し、2005年に単行本になっていた大長編の文庫化である。まあ、長い。上下巻で大体900頁強。『夜のピクニック』で本屋大賞と吉川英治新人文学賞を受賞し、『ユージニア』が直木賞候補になった時期に書かれたものだけに、非常に充実している、というかよくもここまで書き込んだものだ、というような内容になっている。
大変奇妙な設定のお話。基本的にはこの世界とは異なる並行世界内のお話ということになるのだろう。その世界には「V.ファー」という島があり、そこには一年のある時期に死者達と出会うことが出来る「アナザー・ヒル」という土地がある。主人公である文化人類学専攻の大学院生・ジュンは、研究のため親戚などとともにこの地を訪れるのだが、人々の関心は期を同じくして世間を賑わせている「血塗れジャック」事件の被害者から犯人についての情報を聞き出すことにあった。アナザー・ヒルに到着したジュンたちは、そこで連続殺人事件と思しき事態に巻き込まれ、やがて、というお話。
ファンタジィ、ホラー、ミステリなどなど、実に様々な要素を満遍なくギッシリと詰め込んだ、という印象。とは言え、物語自体はさほど多視点的なわけでもなく時間が前後したりすることもないのでスッと頭に入るようになっている。文庫版だと萩尾望都が解説を書いているが、そう言われてみれば確かに彼女の漫画的なテイストも濃厚な作品だと思う。ちょっと重めのものが読みたい方には若干の留保つきでお薦めしたい。それと言うのは、確かに情報量が多く、様々なモティーフの使い方も面白いとは思うのだが、それでもなお、例えばT.ピンチョンの全ての作品や村上春樹の最も良い作品(例えば『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』)程の文学的達成度や充実感を期待してはいけないことによる。以上。(2009/07/26)

ウラジーミル・プロップ著 齋藤君子訳『魔法昔話の研究 口承文芸学とは何か』講談社学術文庫、2009.06(1976)

『昔話の形態学』で知られるソヴィエトの口承文芸学者ウラジーミル・プロップが執筆し、その死後にまとめられた論文集『口承文芸と現実』から7編を選んで訳出したものである。
巻頭のC.レヴィ=ストロースへの反論として書かれた「魔法昔話の構造的研究と歴史的研究」を皮切りに、異常誕生、笑わない王女、あるいはオイディプス神話という具体的なモティーフを扱った3編を中央に置き、終盤は言わば理論編として書かれた3本を並べる。プロップの主張、方法が非常に良く分かる構成になっていると思う。
ところで、原タイトルにある「現実」というのは要するに実生活であるとか、歴史的な事件であるとか、社会構造の変化のような含むそれこそ実際に起こった、実際にあった事柄である。プロップはそれらが、口承文芸の基盤になっていると考える。ソヴィエトの学者ということ、あるいはまた20世紀前半という彼がその思想的基盤を固めた時代性故か確かに19世紀的な進化主義あるいは唯物史観の刻印が分析の端々に認められはするのだが、豊富な例を用いての緻密な論述により自論を組み立てていく姿勢には感銘さえ覚える。
何においても起源を問う事というのはとても難しい事なのだが、それに敢えて挑んだ偉大な学者の思考の軌跡を、是非とも追体験して頂きたいと思う。以上。(2009/07/30)

歌野晶午著『ジェシカが駆け抜けた七年間について』角川文庫、2008.10(2004)

近年の作品からは風格すら感じることが出来る歌野晶午が、2004年に原書房から単行本で出していた長編ミステリの文庫版である。物語はエチオピア出身のマラソン・ランナであるジェシカ・エドルが、所属ティームの同僚アユミ・ハラダの呪殺儀式(いわゆる藁人形に五寸釘を、というやつです。)を見てしまったところから始まる。一体誰を?、という疑念を抱く中、事態は思わぬ方向に動き出し、というお話。あとはご自身でご確認下さい。
1998年刊の傑作長編ミステリ『ブードゥー・チャイルド』辺りから始まるこの作家の言わば「第2の快進撃」とでもいうべきものは本当に凄まじいものなのであり、この作品もその流れの中にある。最大の評価を得た2003年の同じようにタイトルの長い作品『葉桜の季節に君を想うということ』の陰にやや隠れがちな小品ではあるが、併せて読まれるべきであろう。以上。(2009/08/15)

佐藤友哉著『子供たち怒る怒る怒る』新潮文庫、2008.05(2005)

まだ20代の作家・佐藤友哉による、6篇の短中編からなる作品集。言葉遣い、コンセプトにおいてオリジナリティに満ちあふれた作品集で、これまでに読んだこの人の作品の中でもかなり優れたものの一つではないかと考えた。
「大洪水の小さな家」では災厄に見舞われる中で再確認される家族の「絆」を、「死体と、」ではエンバーミングを施された美しい死体を巡って起こる大騒動を、「慾望」では武装し高校を占拠した子供たちの「理由なき反抗」を、表題作「子供たち怒る怒る怒る」では「牛男」による猟奇殺人事件が続く中で行なわれる子供たちによる犯行予測ゲームの顛末を、「生まれてきてくれてありがとう!」では雪の中に閉じ込められた6歳の少年と人形との「交流」を、「リカちゃん人間」では悲惨な境遇の少女が開始する「戦い」を、それぞれ描いている。
平山夢明や乙一などと同じく暴力描写はかなり激しいものだけれど、そうしたギリギリなところを描くことで、今日における人と人とのつながり、コミュニケーションのあり方を見事にすくい取っているのがこの作家なのである。文章の端々に現われる、文学的きらめきを是非お手にとり感じ取って頂きたい。以上。(2009/08/27)