山下晋司著『バリ 観光人類学のレッスン』東京大学出版会、1999.01

刊行は1999年初頭なので、早3年ということになる。ヤバイな、と思いつつも以下、短評を述べる。
これもまた、現段階では余りメジャーな領域となっていない観光人類学の、入門書ないし教科書として誠に適当とも言える良著である。同時期に刊行された、かなりラディカルな内容を持つ橋本和也の『観光人類学の戦略』に比べると、より一般読者向けに書かれているのだけれど(その辺が、「レッスン」と「戦略」の差異である。)、本欄をお読みになり、もしも観光人類学に興味を持たれた方は、まずは山下晋司編『観光人類学』から入って頂いた上で、それに引き続いてこちら(『バリ 観光人類学のレッスン』)を先にお読みになることをお薦めする。
本書で山下晋司が繰り返し述べているのは、文化や伝統といったものをあたかも「太古からつたわってきた本源的な実体」として捉えつつ、観光や近代化がそれを変容させ消滅させていく、などと嘆いてみせるような「消滅の語り」は記述・分析手法として全く妥当・正当性を欠き、そうではなくてそれらが常に創造され更新されるものであるという視点に立った「生成の語り」こそが、必要かつ適当な記述・分析スタイルなのだ、ということである。
確かにそうした「語り口」の重要性は認識しつつも、やはりこれについては太田好信を引くまでもなく私自身異論があるのであって、それはすなわち、「それでは実際に『文化』や『伝統』の『消滅』という現象は存在しないのだろうか?『文化』や『伝統』が『創造』なり『発明』されたものであったとしても、それらが何らかの形で『消滅』するないしさせられるという事例は枚挙に暇がないわけであり、そうなると山下の戦略は、観光地化や近代化の持つそういう側面への批判的言説を封印し隠蔽するための方便に過ぎないのではないか?」ということになる。そう、ごくごく単純に言って、「文化」や「伝統」には「生成」と「消滅」の両面があるのは間違いないのだから、その両面を可能な限り「客観的」な形で取り出すことこそが、観光人類学が人文「科学」である「人類学」の一領域として持つべき基本姿勢なのではないか、ということである。いかがだろう?
付け足しを一つ。メイン・タイトルは『バリ』なのだけれど、バリ島の事例が扱われているのは本書の半分ほどである。他にはトラジャ社会、セピック川流域、遠野の事例も盛り込まれ、それこそ教科書として適当な内容的広がりを持つに至っているのは事実なのだけれど、これは明らかに「看板に偽りあり」である。単に『観光人類学のレッスン バリから遠野まで』とでもしておけば良かったのではないかと思う次第。以上。(2002/01/04)