山田正紀著『マヂック・オペラ ― 二・二六殺人事件 ―』早川書房、2005.11
期待通りの素晴らしい作品。ミステリの一ジャンルに属するとある名作(以下、こんな具合に凄いぼかし方をしてますが、分かる人には分かってしまうかも知れません。同書を未読の方は極力読まないで下さい。)のラストで、余りにも素晴らしいどんでん返しに思わず「嘘だ!」と叫んでしまったという経験を持つ私だが、そこまでとはいかないまでもそれにかなり近いものを感じさせてくれた途轍もない傑作である。ラストも凄いのだが、中盤(250頁過ぎ)のとある事実が明らかになる辺りも凄い。
さてさて、本書は、1974年に『SFマガジン』でデビュウを飾った山田正紀が、約30年の後今度は『ミステリマガジン』に2003年5月号から2005年7月号にかけて連載していた「検閲図書館 黙忌一郎(もだし・きいちろう)」を単行本化したもの。この辺りに、時間の流れを感じてしまうのは私だけではないと思うのだが、それは本書の一テーマにもなっている。タイトルの通り昭和11年に起きた「二・二六事件」を大々的に取り上げた作品で、『ミステリ・オペラ』で幕を開けた〈オペラ三部作〉のうちの第2部にあたる。その超傑作であった第1部が昭和13年の話なので、これはその2年ほど前の出来事、ということになる。
全463頁と、ヴォリュームはさほどでもないし、メタ・フィクションのような趣向も特にないのだけれど、話自体の込み入りようはこの作者ならではのもの。これからお読みになる方のために詳しくは書けないけれど、江戸川乱歩、芥川龍之介、阿部定、萩原朔太郎、エノケンといった面々に、二・二六事件に関わる軍人や政治家、帝都で普通の暮らしをしている市井(しせい)の人々、更には第1部にも登場した黙忌一郎と敵対関係にある陰陽師の占部影道(うらべ・えいどう)等というキャラクタ群が織り成すドラマたるや、絢爛にして豪華としか言いようがない。乃木坂における密室状況での芸者殺害という「小さな」事件と、帝都を舞台とするそれこそ歴史に残る「大きな」事件である青年将校たちによるクーデタ未遂とを一つの物語構造の中に統合し、ある主張を鮮明な形で表現してみせたこの書物に表われた著者の手腕たるや、殆ど神業に等しいかも知れない。
ちなみに、話が物凄く込み入っているにも関わらず、山田正紀がノヴェライズを行なった『イノセンス』の主役である「バトーさん」のイメージで読む他はない特高の志村恭輔をほぼ不動の語り手として据えているので、話の筋を見失うことはない。こういう手法のもたらすもう一つの効果は、謎が提示されその真相が徐々に明らかになっていくというプロセスを読者自身も追体験出来るところにあって、基本的にはハード・ボイルドを指向しているように見えるこの作品が小説として大成功しているのは、複雑な構成を持ちながらそれでもなお語り手をがっちり固定するという手法を採用していることも大きいかと思う。
実は上の件に関連して、部分的に視点が志村から外れるところがあるのだが、それを記しておくと7-9頁、17-22頁、309-356頁、442-460頁(部分的に志村登場)の4箇所。小説内小説の部分は省いているが、問題は304-309頁の記述で、ここには昭和42年に書かれた三島由紀夫の「『道義的革命』の論理 ―磯部一等主計の遺稿について―」が引用されている。冒頭の志村と定の対話は昭和34年のことなので、この部分は一応現在を生きているこの本自体の書き手(=第1部を考えると必ずしも山田正紀ではない)が顔を出している、という風に読むべきなのだろう。一見極めて正統派の密室殺人ミステリと歴史ミステリを統合したもののように見えるこの作品に、メタ・ミステリでお馴染みの「書き手」の問題をちらつかせているところが興味深い、と思った次第。
以下、とり止めもないことを書き付けて終わりにするが、まずその1。本書では乃木坂にある芸妓置屋で密室状況の中、周辺一の美貌を誇る芸者・照若(てるわか)が殺害される、という事件が小説内小説のような形で描かれるのだが、この辺りから、竹本健治による一連の「トリック芸者」ものを想起した人も多かったのではないか、と思う(多くないかも知れないが…)。竹本作品では芸者・酉つ九(とりつく)が主役となっているのだが、そう言えば何となく「てるわか」と「とりつく」というのは音が似ているような気もする。ローマ字で書くと一目瞭然で、TeruwakaとToritsukuというのはやはり偶然とは思えないほど似ている。
その2。この作品は著者自身が述べているように江戸川乱歩へのオマージュなのは間違いないのだけれど、そのペンネームの元になったエドガー・アラン・ポー( Edgar Allan Poe )への言及も含まれていて、この部分が実は本書のキー概念を提示するという趣向にもなっている。ついでながら、この、「群衆」を巡る議論というのは実は笠井潔が『群衆の悪魔 ―デュパン第四の事件』という小説の中で大々的に取り上げたもので、山田による今回の作品には冒頭部での「パノプティコン」への言及も含めて(こちらは同じく笠井の『オイディプス症候群』で大々的に取り上げられている。)、笠井作品からの影響というか残響が強く感じられたところもあった。
最後に、著者「後書き」によれば本書は「二・二六事件」の真相についての著者自身の「妄想」なのだ、ということになるらしいのだが、個人的には、この本は奇しくも二・二六事件と同じ年に起きた「阿部定事件」の真相について語ったもの、という風にも読めてしまった。肝心の阿部定事件についての直接的言及はたったの7行に過ぎないのだが、実はこの本全体が、同事件(=阿部定事件)の真相ならびに深層を、それこそ〈抉り出している〉、と考えたのだった。以上。(2005/12/25)