東野圭吾著『手紙』文春文庫、2006.10(2003)

東野作品では常連となりつつある山田孝之が主演、共演に玉山鉄二・沢尻エリカを起用し、現在公開中の映画原作である。毎日新聞に連載され、単行本は2003年刊。本書はこれの文庫化なわけだけれど、恐らく売れ行きは単行本を遥かに上回っていることだろうと思う。ちなみに、本格ものも含めてミステリ作家としての認知のされ方が一般的な同著者だが、本書は基本的に通常小説である。
さて、「手紙」などという何ともベタなタイトルの小説なのだけれど、確かに良い話だし良く出来た作品である。強盗殺人で刑務所に入っている兄のせいで何をやっても差別され、迫害されてしまう弟のある意味悲惨な半生が描かれるのだが、なかなかに読ませる。中でも、弟が経験するバイトや正社員としての勤労、あるいはバンド活動といったとても日常的なディテイル描写が、全体としてはあり得ないファンタジィぎりぎりの話に幾ばくかの現実味を与えていたりして、その辺りのテクニックが見事だと考えた次第である。以上。(2006/11/27)

森博嗣著『四季 夏 RED SUMMER』講談社文庫、2006.11(2003)

もう冬なのだけれど、これは仕方ないところ。それはさて措いて、本書は森博嗣による「四季」シリーズの第2弾を文庫化したもので、『春』と同時に刊行となった。となると、次は『秋』+『冬』がまとめて刊行されるはずなので心待ちにしたいと思う。
3年前に新書で読んだ『春』については既に書き込んだのでこのシリーズの概観についてもそちらをご覧頂くとして(今読み返すと余り良い紹介になっていないと思う。4冊終わった段階で再評価がなされることになるだろう。)、このシリーズ、やはり犀川&萌絵ものや保呂草&紅子ものを読んでいない限り全く意味の分からないものなので、まずはそれら20数冊をお読みになってから入られた方が良い、というかそうじゃないといけない。
それではあんまりなので本書の概略を示しておくと、13歳になった真賀田四季が、超天才なのに結構深刻な悩みを抱えてしまい、それを彼女なりに解決するまでのプロセスが描かれる、ということになろうか。上に挙げた二つのシリーズの主要登場人物が出揃う、という感じの何とも豪華な書物なのだが、これまた上にも書いた通り、それらを読み終えていないとその辺の面白さを堪能することは出来ない。その点はくれぐれもご注意のほど、と述べておこう。以上。(2006/12/01)

森博嗣著『ZOKU』光文社文庫、2006.10(2003)

光文社の雑誌『Giallo(ジャーロ)』に連載され、2003年に単行本化、2004年には新書化がなされた森博嗣による娯楽小説の文庫版である。タイトルの‘ZOKU’とは“Zionist Organization of Karma Underground”の略称なのだけれど、要するに壮大かつしょうもない「悪戯」を企画・実行し世間を騒がせることを目的とする秘密結社、というような設定。これに対抗するのが‘TAI’と呼ばれる機関で、こちらは“Technological Abstinence Institute”の略。
で、物語の基本構造は両者の対決にあるわけだけれど、物語自体の面白さもさることながら、TAI側が拠点とする特に名前は決まっていない白い機関車やら、ZOKU側が保持し利用するボーイング767などなど、登場するガジェット群の「際限なさ」には目を瞠らせるものがある。それもそうなのだが、基本的に『タイムボカン』シリーズから多くを借りているZOKU側のボケぶり・ズッコケぶり(我ながら用語が古いなぁ、と)が何とも楽しい作品であることを述べておこう。特に「ロミ・品川」のキャラクタ造形が素晴らしい…。以上。(2006/12/03)

二階堂黎人著『猪苗代マジック』文春文庫、2006.11(2003)

文芸春秋の画期的シリーズ=「本格ミステリ・マスターズ」の1冊として2003年に単行本で出ていたものの文庫化である。一応れっきとした本格なのだが、ライト・ミステリあるいはトラヴェル・ミステリ的に読まれてしまう可能性の高かった「旅行代理店員・水乃サトル」シリーズの1冊として書かれたものなのだけれど、これはかなりゴリゴリな本格ミステリに仕上がっていて、「本格ミステリ・マスターズ」シリーズの名に違わない、と思った次第である。
その中身はというと、バブル期をまたぐ形で起きた、主として福島県にある猪苗代湖周辺のスキー・リゾートでの連続殺人事件とその解決が描かれるのだが、そこで描かれる密室構築とアリバイ作りという本格ミステリにおける基本的な要素の見事な絡み合わせ具合は、「うーむ」と唸るばかりのものである。
ただし問題点として、それらの絡み合わせ方は見事なのだけれど、実際に密室構築に使われるアイテムがやや陳腐なのと、そもそも真犯人の人物造形に深みや面白みがないところを挙げておきたい。犯人自身の視点で描かれる章なり節なりを設置すれば後者に関してはクリアできたはずである。以上。(2006/12/06)

Alastair Reynolds著 中原尚哉訳『カズムシティ』ハヤカワ文庫、2006.07(2001)

ウェイルズ出身のアレステア・レナルズが第1長編『啓示空間』に続いて世に送り出した第2長編の日本語版である。原著タイトルの綴りはChasm Cityとなる本書だが、同書は英国SF協会賞を受賞している。翻訳をしている中原尚哉が訳者あとがきで「エンジニアリング・スペースオペラ」という言葉でこの人の小説技法を説明しているのだけれど、まさにその名の通りの内容で、基本的にハードボイルドなテイストの濃い、往年のサイバーパンク的ガジェット群に関する記述を大量に書き連ねた、それでもなおこれまた往年な感じのスペースオペラにさえなっているという、かなり綱渡り的な作品である。
中身を簡単にまとめておくと、タナー・ミラベルという名の、基本的に身辺警護を仕事にしていた男が、レイビッチという名の「仇(かたき)」を追って「カズムシティ」に潜入し波瀾万丈の活躍をする、というプロットに、やはりタナーが見ることとなる、どうやら何らかのウィルスによって引き起こされているらしい記憶の挿入ないしは混乱によって再現される過去のとある出来事が挟み込まれていくのだが、やがて途方もない事実が明らかに、というお話である。
アイデンティティ崩壊、というまあ言ってみればP.K.Dickの流れを汲んだ物語が中心プロットなのだけれど、外挿される様々なアイテム群やアイディア群が何とも壮大かつ緻密で、確かにこれは英国SF協会賞の名に違わぬ傑作だと考えた次第である。『啓示空間』の直接的な続編になっているらしい同氏の第3長編Redemption Arkも既にペイパーバック版が出ており、邦訳を待つか原書で読んでしまうかやや迷っているところである。まあ、700頁を超えているのでそれはそれは大変なのだが…。以上。(2006/12/11)

サイモン・シン(Simon Shingh)著 青木薫訳『フェルマーの最終定理』新潮文庫、2006.06(2000)

ちょっと前に短評を掲載した小川洋子の大ベストセラー『博士の愛した数式』の「副読本。」、というコピーが帯に付けられた、これもまた2000年頃にはかなり話題に上った本の文庫版である。内容はタイトルの通りで、3世紀以上にわたって数学者その他の頭を悩ませ、1994年についに証明がなされたかの有名な定理を巡る、卓越した技量と取材力によって作られた大変見事なノン・フィクションである。
実は、『博士…』では泣けなかった私でも、この本のクライマックスには訳者と同様目頭が熱くなるのを禁じ得なかった、ということを告白しておきたい。そういうもの凄く感動的な本ではあるのだけれど、そうかと言って全般にわたりさほどセンチメンタルな記述をしているわけでもなく、扱われている題材が確かに表面的ではあるとしてもかなり深いところに届いているように思われた。そういう数学あるいはもっと細かくは数論という専門領域についての簡にして要を得た記述に加え、例えばエヴァリスト・ガロアや谷山豊、そしてまた最終的に証明を成し遂げることとなったアンドリュー・ワイルズといった人々の「人間像」を、きびきびとしながらそれでいて生きた人間の息づかいが分かるような叙述で浮かび上がらせている辺りも何とも素晴らしい。
まとめるなら、本書はそういう「学問」と「人間」という2領域の関係性のようなことを見事なバランスで描いた良著だと思う。邦訳も良くこなれた日本語でとても読みやすい、ということも付け加えておきたい。以上。(2006/12/13)

Charles Stross著 金子浩訳『シンギュラリティ・スカイ』ハヤカワ文庫、2006.06(2003)

英国出身の新鋭SF作家チャールズ・ストロス(Charles Stross)による長編デビュウ作。タイトルに含まれている「シンギュラリティ(singularity)」という語は、「特異点」と訳せるかなり色々な場面で使われる語なのだが、本書においては「科学技術が現在からは予想も理解も不能な段階に達する点」、というような意味で用いられている。要するに、本書が描くのは「シンギュラリティ後」の世界なのだけれど、そこでは究極の人工知能「エシャトン」により、人類は9割方が銀河のどこかに移送され、それぞれの星域で様々な社会形態を持って暮らしている、ということになる。
本書の大体の流れを示すと、そのようなシンギュラリティ後の世界で、その前に開発された大方のテクノロジを失った「新共和国」に属するとある星=「ロヒャルツ・ワールド」に、「フェスティバル」という名の謎の存在が来襲し、湯水のように失われたテクノロジ群を与えることでその星の社会を崩壊させるという自体が出来(しゅったい)。これを侵略と見なした新共和国皇帝は、宇宙艦隊を派遣し、というような具合で物語は展開する。
以上のように結構錯綜したお話なのだが、基本的にスペースオペラであり、かつまた上で紹介したアレステア・レナルズ同様かなりエンジニアリング的要素が頻出するいかにも今日的なSF作品で、大変楽しめた次第。特に、エンディングが素晴らしい。続編も既に邦訳が刊行されたので、そちらも早めに入手したいと思う。以上。(2006/12/31)

森博嗣著『四季 秋 WHITE AUTUMN』講談社文庫、2006.12(2004)

森博嗣による「四季」シリーズ第3作である。小説時間は『すべてがFになる』に描かれた事件発生から何年かが過ぎた辺りに設定されていて、『有限と微少のパン』以後色々な意味で姿を現していない真賀田四季がある場所に残していたメッセージに気付いた犀川らと、その他の面々が四季への接触を求めてある場所を訪れ、というような展開のお話である。
犀川&萌絵もの、紅子&保呂草ものに登場した主要な人物の人間関係がほぼ明示される、という作品で、これでこのシリーズは一応の大団円を迎え、更には次作におけるより大きな大団円への布石が終わったことになる。ここまででも十分感慨無量、という感じなのだが、それにもまして、本書で語られる『すべてがFになる』の「真相」には、別の意味での深い感動を覚えることだろう。以上。(2007/01/01)

森博嗣著『四季 冬 BLACK WINTER』講談社文庫、2006.12(2004)

森博嗣による「四季」シリーズ第4作にして、完結編である。小説時間は基本的に前作より以降、そしてかなり先まで伸びることになる。この辺りは読んで確認して欲しい。実のところそこには何とも恐るべき仕掛けが隠されている。余りにも「恐ろしい」ので何も書けない…。
本書では四季と犀川との間のとても重要な対話がリフレインされ、また、『すべてがFになる』の「本当の真相」も語られることになる。このような形で、メタ・レヴェルに昇華させていけばこの先幾らでも創り出せそうなところもあるのだが、これはこれで完成品、ということになるのだろう。
しかし、今後何が書かれていくのか、ということにも大変興味が湧くのも事実である。特にあのシリーズとの繋がりが…。ここでは禁欲的に、余り情報提供(=ネタ晴らし)することなくこの辺で終わりにしたい。以上。(2007/01/01)

Ken MacLeod著 嶋田洋一訳『ニュートンズ・ウェイク』ハヤカワ文庫、2006.08(2004)

スコットランド生まれの作家ケン・マクラウドによる、2004年刊行の長編の邦訳である。既に数多くの作品を公にしている一部ではかなり有名な作家なのだが、どうもこれが本邦初紹介の模様。解説にもある通り、これを機に一気に翻訳作業が進むことを期待したい。
この作品もこのところ集中的に紹介してきた英国のエンジニアリング系スペース・オペラの系譜に位置づけられる。というより、正にその典型例とも言える作品である。上で紹介した『シンギュラリティ・スカイ』の舞台設定と酷似するのだけれど、要するにAIの進化が〈特異点〉=シンギュラリティを突破してから約300年後がこの作品の小説時間となる。
そのような舞台設定の元、銀河系に拡がるワーム・ホール網を牛耳るスコットランド系の一族=カーライル家の一人であるルシンダ・カーライル率いる「実戦考古学」調査隊が、エウリュディケなる惑星に到着、そこで遺跡を調査するうちに誰かが遺した戦闘マシン群を起動させてしまい、更にはその星に住む人類の生き残りとも戦闘に陥り、というような感じで物語は幕を開ける。
その後は『シンギュラリティ・スカイ』以上に錯綜した話が展開するのだけれど、スコットランド魂のようなものだの、かなり政治的な記述などなど、メイン・プロット以上にサブ・プロットや副次的な登場人物群についての叙述がとても興味深く読めた次第。なお、かなり分かりにくい話なのだが、一冊に含まれる情報量は途轍もないものがあり、そういうものがお好きな方にはお勧めできる書物である。以上。(2007/01/02)

Charles Stross著 金子浩訳『アイアン・サンライズ』ハヤカワ文庫、2006.12(2004)

既にその長編第1作目『シンギュラリティ・スカイ』を紹介したチャールズ・ストロスだが、早くもその続編となる第2長編が邦訳された。第1作と同じレイチェルとマーティンという秘密エージェント・カップルを主役に据えた作品で、完成度から言えば明らかに前作より上であると思われ、そんなことからヒューゴー賞長編部門にノミネートという評価を得たようだ。
前作同様の「シンギュラリティ後」の世界を舞台としたお話だが、今回はとある恒星への「鉄爆弾」投下によって引き起こされた「衝撃波面」から逃れようとするある惑星の住民の一人であるゲスト出演の少女・「ウェンズデイ」が、ある重要な情報を握ってしまったために謎の組織から追われる羽目になり、という展開を持っている。
それなりに錯綜しているとは言え、基本的に逃走劇がメイン・プロットとして一本通っているので、前作より遙かに読みやすいし、デビュウ作にありがちな「盛り込みすぎ」な感じも払拭され、世界状況や各種テクノロジ等々の説明も非常にスッキリとまとまっているように思う。このところ読んできた様々なSF作品の中では最も秀逸と言って良い出来映えの好著である。以上。(2007/01/15)

伊坂幸太郎著『アヒルと鴨のコインロッカー』創元推理文庫、2006.12(2003)

現在最も直木賞に近い作家の一人である千葉県出身の伊坂幸太郎による、第25回吉川英治文学新人賞受賞に輝いた長編。既に劇場用映画が制作され、近く公開される模様である。その中身はと言えば、現在と2年前という二つのプロットを交互に配置した一応ミステリという範疇に属する物語で、悲惨な話なのだけれどきっちりと小説的カタルシスが味わえる大変良くできた作品である。
現在時制の主人公が、引っ越した先の先住人から「本屋襲撃」に誘われその実行を手伝う羽目になる、あるいは全編に渡って登場する猫に狂言回し的役割を与えている、という辺りからは村上春樹を、終盤で二つの時間を繋ぐモノとして使われることになる「コインロッカー」という語を含んだタイトルからは村上龍を想起させられた。
こういったことは恐らく作為的に行なわれていると思うのだが、一応エンターテインメント作品として読める本書がその実かなりいわゆる純文学に近い表現法をとっていることを見るに付け、今回初めてその著作を読むこととなったこの著者を、1980年以降の純文学やその周辺の作家群、例えば「両・村上」に代表される作家達の系譜に連なる作家の一人として、認識するに至った次第である。最後に、以下に既に文庫化されている何冊かの紹介文を掲載の予定、と述べておこう。以上。(2007/01/16)

伊坂幸太郎著『重力ピエロ』新潮文庫、2006.06(2003)

2003年に発表された、1970年代以降生まれの作家(ちなみに、著者は1971年生まれ。)として初めて直木賞候補に挙がった色々な意味で記念すべき作品。遺伝子産業の会社勤務の兄と、母親が未成年の男にレイプされた結果として生まれたその弟による、仙台市内で頻発する連続落書き及び放火事件を巡る謎ときとその顛末を描く大変優れた作品である。
このところ流行の「兄弟」ものである辺りだの落書きの謎解きだのに舞城王太郎的なテイストを強く感じたのだが、文体はあそこまで濃密ではないにせよ、かなり濃い内容で、思わずうなること仕切りな感じだった。実に法学部出身らしいテーマ設定なのだが、謎解きその他の内容に踏み込まざるを得ないこともあるので、その詳細については記さないことにしたい。
ちなみに、タイトルは当然J.L.ゴダールのあの有名な映画をもじったものであり、更にはまたゴダールの名前は作品の中でも重要なタームとして用いられている。やや蛇足めくが、頭脳派の兄と肉体派の弟という兄弟間の関係には傑作アニメーション作品『無限のリヴァイアス』を彷彿とさせるものがあるのだが、あの作品も本書と同じく必見(こちらは必読)だと思うので是非ご覧頂きたい。以上。(2007/01/18)

John Maxwell Coetzee著 くぼたのぞみ訳『マイケル・K』文庫、2006.08(1983)

南アフリカ出身のノーベル賞作家、J.M.クッツェーの出世作とも言うべき、1983年に英国ブッカー賞を受賞した傑作の文庫版である。あちこちにキャンプというのは名ばかりの収容所のような施設が作られ、そういったことに端的に現われている厳しい国家統制が引かれた結果として、あたかも監獄のようなものと化した内戦下の南アフリカ社会の中で、マイケル・Kという名の知的障害を持つ男が、「自由」を渇望してさまよい歩く姿を描いた何とも力強い作品である。
全体が3部に分かれているのだが(ちなみに第3部は極めて短い)、マイケルの視点で描かれる第1部と、マイケルが収容されたキャンプで働く医師の視点で描かれる第2部の表現上の対比がとても印象的であった。それに加え、第2部では「自由」の意味を巡って、マイケルと医師等の間のそのとらえ方の違いが主題化されていて、この部分に書かれていること、即ちマイケルが希求する「一切の拘束なき自由」と、「キャンプ」等々が体現している「管理下における拘束ある自由」の一体どちらがより人間的か、という問い掛けこそが本書の中心テーマとなっているように思う。
こうした、抑圧されるものと抑圧するものの表現上の、あるいはその志向性のあり方の対比、というようなところに端的に現われている、この著者の問題意識や主題設定は、これが書かれた1980年代から活発化したポスト・コロニアル文学批評や、あるいはサバルタン・スタディーズといった分野とも共通点が多く、その作品の多くがそうした場所で頻繁に引き合いに出されていることは周知の通りである。色々な意味で既に古典的名作とも見なしうるこの思想史的にも文学史的にも重要な作品を、この機会に是非ご一読頂きたいと思う次第である。以上。(2007/01/22)

Greg Egan著 山岸真編・訳『ひとりっ子』ハヤカワ文庫、2006.12

今日におけるSF界で最も重要な作家の一人であるグレッグ・イーガンによって書かれた短編を、日本オリジナルな形で編集したもの。このような形での短・中編集としては第3弾にあたる。
数学(主として数論や数理論理学など)や物理学(主として量子力学や宇宙論)、あるいはインプラントに代表される今後開花するだろう領域のテクノロジといったものを縦横無尽に扱いつつ、それでいてきちんと深い人間洞察を含んだ物語を形作るこの作家の手法にはいつも驚嘆を禁じ得ないのだが、そうしたものはここに収録された作品群にも実に見事な形で現われている。
中でも、表題作「ひとりっ子」は、多元宇宙論(量子力学含む)とロボット工学とが見事に融合された傑作だと思うし、やはり多元宇宙ものの「ルミナス」は、その大胆さと緻密さを兼ね備えた見事なストーリィ展開に感服した次第。他の5篇も傑作揃いなので、イーガン・ファンのみならず、この人のものをまだ読んだことのない方にも「イーガン入門」としてお薦めできる一冊である。以上。(2007/01/29)

青山真治著『月の砂漠』角川文庫、2005.07(2002)

『EUREKA』『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』などといった個性的かつ完成度の高い映画を作ってきた青山真治による、2002年には同名の映画もさりげなく公開されていたその原作小説の文庫版である。といって、未だにこの三上博史、とよた真帆、柏原収史が出演しているらしい映画を私は観ていない。DVDも出ているし、そろそろ何とかしたいところではある。
さてさて、昨日丁度市長選が行なわれた北九州市出身のこの人の作品だから、何かの役に立つんじゃないかと思って先週末3日間行っていた九州調査と前後して読んでいたのだが、九州北部が舞台の『EUREKA』とは違って話の舞台は東京周辺で、まあ、さほどの意味はなかった、ということになる。そういうことはさておき、この人の小説は初めて読むことになったのだが、粘っこい文体や、昨年起こったlivedoorの一連のスッタモンダを想起させる、そこそこ先見性のあるといって良いだろう物語展開からはかなりのインパクトを感じた次第。以上。(2007/02/03)